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 会社再建策として東宝は、同プロの株式の60%を取得、完全子会社化した。登記上の会社名も円谷特技プロダクションから、現在の円谷プロダクションに変更、再建へ舵を切ったのである。以下は68年12月6日に開示された新役員人事である。

 社長・円谷英一(円谷英二の本名)、代表・藤本真澄、専務・円谷皐、取締役・柴山胖、雨宮恒之、円谷一、馬場和夫、今津三良、有川貞昌、和田治式。

 専務の円谷皐は英二の次男で、この年の3月にフジテレビを退社。同時に円谷プロが制作した作品の販売など、事業面の発展をサポートすべく円谷エンタープライズを起業、社長の座に納まっていた。取締役の円谷一は長男で、この頃はまだTBS社員だった。

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 役員の顔ぶれが変わり、円谷プロ内部は様変わりしていった。『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』と健筆をふるった脚本家、金城哲夫が企画課長を務めていた企画文芸室は廃止され、上原正三、宮崎英明(赤井鬼介)とともに、新設のプロデューサー室に配属となった(*6)

*6 室長・有川貞昌。プロデューサー・守田康司、野口光一、金城哲夫、宮崎英明、上原正三、新野悟、熊谷健、郷喜久子。

円谷英二の思いを反映した幻の企画

 番組発注が途絶えた円谷プロだったが、金城達は歩みを止めることなく、新番組の企画を作成していた。この時期のもので現在判明しているのは、『日本ヒコーキ野郎』『ザ・マンキース』『ビッチラ大冒険』の3本である。後者2本は、1冊の企画書に2本まとめられており、印刷は68年11月13日。『ザ・マンキース』は、人類の祖先を描いた内容、『ビッチラ大冒険』は、ひょんなことから宝の地図を手に入れた平凡な元サラリーマンの冒険を描く内容で、ともに喜劇であった。

©iStock.com

 しかし68年の企画書でもっとも注目すべきは『日本ヒコーキ野郎』である。これは英二念願の企画であり、死の直前まで実現に心血を注いでいた(*7)。68年3月30日に印刷されたこの企画書は、TBSに提出されたもので、番組フォーマットは60分、連続26回、オールフィルム・カラー(企画書より)を想定していた。これは他の2本より先行していて、表紙の右下には“円谷プロ企画室”と印刷されている。ここで、企画だけに終わった幻の『日本ヒコーキ野郎』をほんの一部分であるが紹介したい。以下、冒頭の文言と企画意図を採録しよう。

*7 劇場映画を含め検討されていたようである