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円谷プロ最初の黄金時代の終わり

 こうした状況下で、円谷プロの企画の要であった金城哲夫のモチベーションは急激に低下していた。金城が記した12月12日の企画課ノートには“1億の借金を背負って新たにスタートする陣営である。厳しい日々が予想される。しかし厳しければ厳しいほど仕事の充実は大きいと考えよう。必死にやりぬくのみである。企画室時代の自分しか知らぬ者は、『やれるのかい』とやや批判的である。腰をおちつけて、ジックリとTV映画作りに励みましょうというわけだ”とあり(*14)、一見決意表明のようである。しかしこの頃の金城は酒量が増え、連日のように荒れていたという。つまりノートに書き連ねた文言は、折れそうになる気持ちを必死に支えるため自らに言い聞かせていたのかも知れない。事実、金城が書き続けていた企画課ノートは翌69年1月15日で途絶え、二度と再開されることはなかった。69年の年明けに金城は以下のようなメモを残している。

*14 企画課ノート、メモの引用は上原正三『金城哲夫 ウルトラマン島唄』(筑摩書房)より。

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新番組ピンチの理由。

円谷プロに対する偏見。(とくにTBS・CX(引用者注・フジテレビのこと)の場合は複雑である)他社は特撮プロとしか認めない。

〇俳優を持っていない。現在のテレビ映画の企画の場合は、企画の内容よりもスターが優先する。

〇売れる監督がいない。

〇プロデューサーがいない。現在のテレビ映画は、プロデューサーに企画をおろす傾向にあり、それだけ実力のあるプロデューサーが必要とされる。

〇円谷プロ最大の売り物は特撮である。それをやめるのは不利。いくら制作費のコストが安くても特撮入りの企画をすすめるべきであろう。

 このメモの記述は、前年12月の意気込みとは正反対の心境に思える。しかし、金城の分析はある意味当たっている。テレビ局の円谷プロへの評価は、わずか2年ほどですっかり変わってしまっていた。そしてテレビ界そのものが変質していた。英二が心血を注いだ『日本ヒコーキ野郎』も、こんな状況では局に採用されるはずもなかった。失意の金城は2月28日に円谷プロを退社、翌3月1日には早々と故郷の沖縄に旅立った。こうして特撮の梁山泊、円谷プロ最初の黄金時代は名実ともに終わったのだった。

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©円谷プロ

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