『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の高視聴率を受け、新たに製作されたウルトラシリーズ『帰ってきたウルトラマン』。円谷英二氏の死去をはじめとした逆境を乗り越えて完成にこぎつけた第一話は26.4%の高視聴率を記録した。しかし、その後は苦闘が待っていた……。

 ここでは、特撮に関する書籍を多数執筆する映画評論家、白石雅彦氏の著書『「帰ってきたウルトラマン」の復活』(双葉社)の一部を抜粋。当時の製作背景、そして特撮の神様が抱いていた思いを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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崖っぷちだった円谷プロの1968年

 1953(昭和28)年2月1日に産声を上げた我が国のテレビ放送は、60年代中盤には最初の黄金時代を迎えている。その真っ直中、66年1月2日よりTBS系で放送開始した円谷プロ制作の『ウルトラQ』は、のちに“特撮の神様”と呼ばれる円谷英二(*1)が監修を務め、我が国初の本格特撮テレビ映画として大ヒットを記録した。メインの視聴対象だった子供達が熱狂したのは、作中に登場した数々の怪獣達だった。それまで映画でしか観ることの出来なかった怪獣達が(*2)、ブラウン管狭しと暴れ回る光景は、子供達の目を釘付けにし、我が国は“怪獣ブーム”と呼ばれる空前のムーブメントに覆い尽くされる(*3)

*1 『ウルトラQ』以降、円谷英二は様々なメディアに取り上げられる機会が増え、“円谷英二=特撮の神様”という呼び名が一般に定着する。
*2 それまでにも『怪獣マリンコング』(60年4月3日~ 9月25日、フジ)のマリンコング、『月光仮面』(58年2月24日~59年7月5日)のマンモスコング、『ナショナルキッド』(60年8月4日~61年4月27日、NET)のギャプラといった例外はあった。
*3 最初のブームは68年頃まで続いた。

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 勢いに乗った同プロは『ウルトラマン』『ウルトラセブン』とシリーズを連発した。怪獣ブームが沈静化し“妖怪ブーム”が囁かれ始めると、それに歩調を合わせるかのように怪奇犯罪ドラマ『怪奇大作戦』を制作。TBS側のプロデューサーは『ウルトラセブン』の三輪俊道から橋本洋二に代わり(*4)、テーマ性、社会性を持った作品を嗜好する氏らしい高密度のドラマを展開したが、視聴率的にはスポンサー、TBSともに納得出来るものではなく、番組は2クール26話で終了する。『怪奇大作戦』の終了により、TBSからの番組発注は途絶え、円谷プロは一気に冬の時代に突入してしまう。また、番組の質(特に特撮)にこだわる作品作りを続けてきたため、『ウルトラQ』制作時から慢性的な赤字に苦しみ、『怪奇大作戦』制作時の68年にはのっぴきならない状態に陥っていた。

*4 『ウルトラセブン』中盤から参加。『「ウルトラセブン」の帰還』(双葉社)を参照。

 その年の4月から民放初の1000万ドラマとして鳴り物入りで放送された『マイティジャック』(*5)は、赤字解消の切り札として期待されたが、内容的にも視聴率的にも惨敗で、2クールの予定が半分の1クール13本に縮小されてしまう有様だった。

*5 68年4月6日~6月29日、フジ。