勝利は東武特急に。国鉄は緩やかに撤退戦
もはや気動車ではスピード、サービスともに戦えない。そこで国鉄はついに日光線の電化に着手した。1959(昭和34)年の電化完成と同時に「日光」を電車化する。そのための専用車両として157系を製造した。営業最高速度は時速110km、3等車(普通車)は回転クロスシート、2等車(グリーン車)はリクライニングシート。6両編成すべてにトイレと洗面所を備え、とくにグリーン車には洋式トイレを設置した。東海道本線でデビューした151系「こだま」と同様の設備ながら、運賃は準急の料金というバーゲン価格だ。
国鉄の大反攻作戦を受けて、東武鉄道は次の手を打った。1960(昭和35)年に1700系の改良版、1720系「DRC(デラックスロマンスカー)」を6両編成で投入した。1720系は国鉄特急電車「こだま型」にも似たボンネットタイプの先頭車で、子ども向けの絵本には小田急ロマンスカーや名鉄パノラマカー、近鉄ビスタカーなどと並んで紹介されていた。
サービス内容も斬新だった。サロンルームというフリースペースにはジュークボックスが設置されていた。ビュッフェは1編成につき2カ所、トイレは和式と洋式の両方あり、外国人旅行者が多い日光の特徴を受け止めた。
東武特急1720系DRC、国鉄準急157系のバトルは、157系が引退する1969(昭和44)年まで続く。この間、国鉄は「日光」を準急から急行に格上げし、毎日4往復に増発した。新宿発、伊東発など、日光行き急行の運用範囲も拡大していく。国鉄のネットワークは強い。
これに対して東武特急は2つの対抗手段をとった。1つは集客だ。北千住駅に停車して、常磐線や地下鉄日比谷線から利用しやすくした。もう1つはスピードアップだ。日光線で戦時に単線化された区間を1973(昭和48)年に複線に復旧させて、「けごん」は浅草~東武日光間でノンストップ、所要時間は1時間41分となった。
これで勝敗は決まった。「けごん」「きぬ」は速くて快適。これに対して国鉄「日光」は宇都宮駅で方向転換するため、所要時間の短縮に限界がある。また、座席の転換も乗客にとっては面倒だった。国鉄は1969年から157系電車を日光方面から引き上げて、伊豆方面の特急「あまぎ」に充当する。「日光」には新形とは言えボックスシートの165系を投入しつつ、少しずつ運行本数を減らしていった。まるで緩やかな撤退戦だ。
1982(昭和57)年のダイヤ改正で急行「日光」は廃止された。