1ページ目から読む
3/4ページ目

温泉があるぶんだけ東武鉄道が優勢か

 国鉄は1934(昭和9)年に準急の所要時間を3分短縮し、食堂車を連結するなどサービスアップで対抗した。臨時増発列車も運行させるほどの人気だったという。一方、東武鉄道は1935(昭和10)年に新型特急電車「デハ10系」を投入している。最高運転速度は時速95kmで、浅草側の走行距離が少し延びたにもかかわらず、浅草~東武日光間の所要時間は2時間18分に短縮された。1937(昭和12)年には、特急の鬼怒川温泉駅乗り入れも果たした。

 両者拮抗、いや、温泉があるぶんだけ東武鉄道の優勢のまま、この競争は1940(昭和15)年に停止へと向かう。第二次大戦の激化と敗戦だ。まず、国鉄の準急から食堂車が消えた。そして1943(昭和18)年には準急列車が廃止されてしまう。東武鉄道側も1942(昭和17)年に特急を運行休止、翌年には正式に廃止された。東武日光線は不急不要路線に指定され、単線化。レールを供出させられてしまった。

戦後は新車導入でガチ対決へ

 戦後、日光行き特急の再開は東武鉄道が先だった。1948(昭和23)年だ。進駐軍の行楽輸送という屈辱であった。しかしすぐに一般客にも開放され、浅草~鬼怒川温泉間の特急「鬼怒」となり、初めて特急券が発売された。1949(昭和24)年にデハ10系電車が復旧し、「鬼怒」と日光行き「華厳」が毎日運行された。1950(昭和25)年には展望車も復活する。

ADVERTISEMENT

 一方、国営鉄道は公共企業体の日本国有鉄道となり、独立採算制となった。1950年に上野~日光間で客車による臨時快速「にっこう」の運転が始まる。所要時間は2時間40分程度。東武鉄道は、再び日光競争が始まると察知し、新型特急電車の開発に着手。1951(昭和26)年、5700系電車を投入した。座席はすべて転換式クロスシートだ。大手私鉄などがこぞって2人掛け座席を「ロマンスカー」と呼んでいた。東武鉄道が1歩リード。

 国鉄は1955(昭和30)年に客車列車をキハ17形気動車とし、列車名を「日光」とした。宇都宮駅で機関車を前後に付け替える手間はなくなったけれども、所要時間は短縮できなかった。本格的な反攻作戦は、翌年、1956(昭和31)年に準急用新形気動車、キハ55形の投入から始まる。

「隅田川を越えた」場所にある東武浅草駅 ©iStock.com

 準急「日光」は上野~日光間を約2時間で結び、東武特急と並んだ。座席は直角ボックスシートのままだったけれども、車体が大型化されたため、キハ17形よりもゆったりと座れたらしい。それでも東武特急と互角に戦えた。なにしろ東武特急は浅草という、山手線に接しないターミナルだ。国鉄は上野、のちに東京を発着し、広範囲に集客できた。 

 これに対抗するため、東武特急は同じ1956年に新型電車1700系を投入する。最高運転速度は時速105km、座席はリクライニングシート、2両編成が基本で、軽食を提供するビュフェカー、売店を設置した。