コロナ禍で自炊の頻度が増えた人は多いだろう。日々の食卓を調える人の嘆きも聞こえてくる。献立に困る、負担が増した、疲れた。それらの源は「ねばならない」という心の縛りではないか、と著者は語る。
うつにより「ふつうに暮らすことが冒険となった」著者は、人並み以上にこなしていた料理が、一切できなくなってしまう。掃除など他の家事はできるのに、料理だけができない。
献立を立てようとしても選ぶことが苦痛でできない。お好み焼きをひっくり返すことが難しい。豆腐を皿に入れられずパニックになる。うつに集中力や瞬発力、適応力を奪われたからだ。
私の身内にもうつを患う者がいる。やはり一番症状が重かったときは、好きだった料理が一切できなくなった。遥かにレベルが下回る私の料理を黙って食べていた。どう感じているのか、何を思っているのか。自分なりに解説を探し、それでも理解しきれずもどかしかったことが、この本のおかげで少しだけ分かったような気がする。
行き場なく止めた手の上で震える豆腐の重み。ずらりと並んだ食材から放たれる圧。そこから闘病中の著者の思いや痛み、そしてうつがどのように、どれほど心身を苦しめるかが痛いほど伝わってくる。
そのために料理を止めたことが、断食と同じような効果をもたらしたのかもしれない。著者はいつからか舌が慣れて感じなくなっていた苦味に気づく。「日替わりのバラエティある献立で」「ちゃんとていねいに手づくりしなければならない」という思い込み、「ねばならない」だ。
カレーやハンバーグに無数のレシピがあるように、家庭料理のスタイルももっと自由でいいのではないか。「ねばならない」料理を「私の」料理へ。その解放に爽快感を覚える一方で、ある声を思い出す。
――私だけならねー……。
家で料理を担当している人と話すと、苦笑いでこう嘆く人がときどきいる。ともに食卓を囲む家族の「ねばならない」に縛られている人たちだ。
日々調え「ねばならない」というメニューの中身や用意する回数、時間帯を聞いて言葉を失う。なんでそこまで、と問いたい気持ちをぐっと飲み込んで「……好きなんだねぇ」「……愛だねぇ」と返す。
そのとおりなのだ。料理を楽しもう、家族を愛するという意志をもっているからできること。やらされるのではなくやる。「私の」料理で家族を満たすことで、自分をも満たしている。
料理は人生に似ているという言葉が登場する。さじを握らされるか握るかで、料理のさじ加減も違ってくるのではないか。そして、その心構えが料理の味に差をつける。本書は食という共通言語を使って、うつだけでなく、ままならない今を少し生きやすくするヒントも語っている。
あこまり/作家・生活史研究家。食を中心にした生活史やトレンド、ジェンダーなどを研究。『母と娘はなぜ対立するのか』『料理は女の義務ですか』『小林カツ代と栗原はるみ』『平成・令和食ブーム総ざらい』など著書多数。
えんどうさえみ/東京都生まれ、埼玉県育ち。作家。2019年に食の検定1級を取得。近著に『二人がいた食卓』(講談社)。