部屋の重たい扉を開けると……
高級マンションの玄関のような重々しい扉が並び、そのひとつひとつには部屋の名前が掲げられている。
無くしようのない大きさのルームキーを鍵穴に差し込み、重たい扉を力強く開ける。奥まで伸びる廊下にも、横になって眠れそうなふかふかの絨毯が敷かれている。
突き当りの扉を開けると、広くて明るいリビングが広がり、大きな窓からは田辺湾が一望できる。イギリス王室御用達の家具が並び、窓際には4人掛けのテーブル席が置かれている。10人は腰掛けられるボックス席では、寝転ぶことだって余裕だ。これだけの広さを独り占めとは、完全に持て余すだろう。
リビングの隣はベッドルームへと繋がる。シモンズベッドの枕元にはタッチパネルがはめ込まれ、あらゆるものがスイッチ1つで自動で動く。
ほかにもトイレ、パウダールーム、浴室、洗面所。手の届くところに欲しいものがスタンバイしており、いちいち嬉しい。
2016年には大浴場が改装されたようだ。様々なタイプの機能浴が揃う内風呂に加え、間接照明と曲線をふんだんに使った、美意識の高い風呂が気持ちいい。控えめにくり抜かれた窓からは涼しい海の風が入ってくる。無意識に感情がこみ上げ、思わず顔がほころぶ。しあわせだ。
風呂上がりにはほてった体を冷ましながら、用意されたアイスキャンデーやドリンクでクールダウン。テラスと一体化しており、そのまま夜風にあたることも。
ささくれ立った心がじんわりと、優しい気持ちになった。
朝と夜はビュッフェ形式。
キレイに盛り付けられた料理が並ぶ中央では、紀州の旬な食材を使った実演調理が行われている。揚げたての天ぷら、板前の握り寿司、時には炎が上がるパフォーマンスもあり、目でも舌でも楽しませてくれる。当然どれを食べてもおいしい。何度でもおかわりがしたい。料理はひとくちずつしか分けられていないのだが、全種類のうち半分以上の味を知らないまま満腹になってしまった。それだけ品数が豊富なのだ。
かつては限られた者しか入れなかったホテル
ホテル川久はかつて、限られた者しか入ることができなかったが、現在はより多くの人々が利用できるようになった。これからこの建築の価値を認める人が、世界中から訪れるだろう。気になる方はぜひ、本物を見て触れてほしい。本当にいいものは、多くの人の心を動かすのだ。
チェックアウトをして川久を背に走り始めると、昨日通ったのどかな街並みに戻った。信号で止まり、軽トラとすれ違う。登校するこども、散歩する老夫婦、堤防には釣り人がいる。ここの住人にとっては、いつもの平凡な日常だ。
そういえば、ここは和歌山県だったんだ。
忘れられない夢から醒めた気がして、なんだか急に寂しくなった。
もうすでに、川久に泊まりたい。
※取材は新型コロナウイルスの感染者が日本で確認される以前に行いました