1941年、4つの連続殺人が起こった。きっかけはとある一家の「父と子の関係」だった。
コロナ禍をきっかけに、家庭内暴力が大きな社会問題になっている。家族関係を発端とする事件は、しばしばもとが密な関係であることもあり、いっそう苛烈化しかねない。
社会が大きく揺れる今だからこそ、その当時の事件から何を学ぶことが出来るのか。ジャーナリスト・小池新の『戦前昭和の猟奇事件』が1冊の本になるのを機に、当該の事件について再公開する。
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いまから79年前の1941年。4月に始まった日米交渉は難航。関係は悪化の一途をたどり、最終的に12月、太平洋戦争が勃発する。そんな「戦争前夜」の8月から開戦を挟んだ約1年間、静岡県西部の遠州地域で4件の連続殺人事件が起きた。捜査は迷走したが、4件目の事件の捜査から3件目の被害者家族への疑いが浮上。六男が逮捕された。聴覚障害者で当時の刑法では刑の減免の対象だったが、裁判では「難聴者」として死刑判決。1カ月余後の1944年7月に慌ただしく処刑された。
この月、日本の「絶対国防圏」の一角だったサイパンが陥落。日本の敗色が日ごとに濃くなる。戦時下の犯罪は報道も制限されて知る人は少ない。今回も障害者が登場することなどから差別語が大量に出てくるが、時代を理解するためにそのまま引用する。
【第1事件】「芸妓対客筋をめぐっての犯行と判断され……」
「濱(浜)松市外 北濱花街の惨劇 貴布禰(祢)藝(芸)妓置屋で藝妓二人を滅多斬り 犯人不明深夜の凶行(一名即死一名瀕死)」。静岡の地元紙・静岡民友新聞1941年8月19日付(18日発行)夕刊1面はこう見出しを立てて報じた。
【浜松支局】今18日午前2時50分ごろ、浜名郡北浜村の花街…北浜村貴布祢205番地、芸妓置屋「和香松」こと佐藤はま方別邸の便所窓口より怪漢侵入して、熟睡中の同家抱え芸妓勝奴こと原籍秋田県山本郡花若村、高松まさゑ(20)及び君龍こと原籍(静岡県)周智郡犬居町、河村まさ子(20)の両名を鋭利な刃物(凶器は日本刀か包丁か不明)で切りつけ、頭部並びに頸部をめった切りにして逃走した。(中略)本稿締め切りまでにはいまだ犯人不明である。
同紙は8月19日付朝刊の続報で「18日午前3時ごろ、『苦しい苦しい』という君龍のうめき声に、はまさんが目を覚ました時は、勝奴は鮮血にぬれて絶命し、君龍は瀕死の重傷で苦悶しており、はまさんは狂気せんばかりに驚き、助けを呼んだが、その時は既に犯人はいずれかに逃走した後」と報道。「勝奴も君龍も人から恨みを受けるような性質ではありませんし、痴情関係といっても、そうした浮ついたうわさも聞いていません。私どもとしては何の見当もつきません」という「和香松方」の話と、「勝奴も君龍もこの土地では相当の売れっ子です」という消息通の談話を載せている。1979年に出版された「静岡県警察史 下巻」では、死亡した芸妓は「勝也こと高松マサエ」、重傷を負ったのは「君竜こと河村正子」となっている。こちらの方が正しいか。
同書によれば、浜松署長は現場に急行。貴布祢巡査駐在所に仮の捜査本部を設置した。「ことに、被害者は2人とも芸妓で、芸妓屋で起きた事件であるので、芸妓対客筋をめぐっての犯行と判断され、客筋に対する捜査は最も厳重に行われた」。そして、第1事件から「警察署に引き揚げた捜査員が汗ばんだシャツを脱がないうちに」第2事件発生の報告がもたらされた。