1941年、4つの連続殺人が起こった。きっかけはとある一家の「父と子の関係」だった。
コロナ禍をきっかけに、家庭内暴力が大きな社会問題になっている。家族関係を発端とする事件は、しばしばもとが密な関係であることもあり、いっそう苛烈化しかねない。
社会が大きく揺れる今だからこそ、その当時の事件から何を学ぶことが出来るのか。ジャーナリスト・小池新の『戦前昭和の猟奇事件』が1冊の本になるのを機に、当該の事件について再公開する。
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<芸妓や家族までメッタ刺し……約80年前に起こった「浜松連続殺人事件」犯人は、意外すぎる人物だった から続く>
第4事件の現場に残された布片は犯人が覆面に使い、格闘の際、外れ落ちたとみられ、専門家の鑑定でマンガン防染生地と判明。浜松市の「外山織物合名会社」が扱った「遠州織物」で、試験の過程で開発不成功になっていたことが分かった。その際、第3事件の被害者方の三男(30)が、当時家を出て浜松市に住み、同社に勤務していたことが分かり事情を聴いたが、事件との関係性ははっきりしなかった。
花街には「酒と金と女」が渦巻いていた
ここで、この事件を振り返ってきて「なぜこんな場所に芸妓置屋が栄えているのか?」と、疑問に思った人もいるだろう。第1事件の現場である貴布祢をはじめ、この近辺に芸妓置屋が多かったのは、日清紡績を筆頭に織物業者が集中し、料亭などが頻繁に会食や宴会などに使われていたから。「貴布祢は日清紡績工場の進出以来、料理屋・待合・芸者屋の営業が許可された一つの小規模な三業地として栄えることになったが、機業(織物業)の会合がこの地を利用していることが分かる。大人の娯楽のいわば中心地であったろう」(浜北市史 通史下巻)。
そうした花街には「酒と金と女」が渦巻いていたはず。第1、第2事件から武蔵屋事件にさかのぼって、芸妓と客のどろどろした関係に刑事たちの目が集中したのも、ある程度は無理がなかったのかもしれない。地域の特色が表れた事件だったともいえる。
「自分は犯人ではない。誠策を調べてくれ」
この段階の捜査に別の立場から動いた人物がいた。静岡県警察史によれば、第4事件の被害者方からは応召兵が出ていたため、浜松憲兵分隊も別途捜査を進めていた。坂下という憲兵伍長が第3事件の被害者方を訪問し、そこで第4事件の遺留品と同じ布片を発見。三男が持ってきたものとの証言を得る。
11月17日付静岡新聞朝刊によれば、これと前後して、やはり別居している長男から家に「布を調べに来るかもしれないが、知らないと言え」という電話があったことが判明した。9月24、26日の両日、第3事件被害者宅を家宅捜索。同一の布片を発見したため、三男を追及すると、自分で新しい織物を作ってひともうけしようと1937年ごろ、浜松市の工場で試し織したものだったが、外山織物に納入したものの不合格。全部実家にやってしまったということだった。
やはり実家を出ていた次男(33)を調べると、「自分は犯人ではない。誠策を調べてくれ」と言った。次男の話では、誠策は第4事件の前夜、「友人の家に遊びに行く」と言って自転車で家を出たまま、翌日の午後2時ごろ、左の目をはらして帰ってきた。さらに、第3事件で殺害された四男の妻は、事件があったとき、「ミシン、ミシン」と犯人が2階へ上がったような音がしたと証言。後で調べてみると、音のする場所は2階へ上がる階段だけだったため、家族の間では「誠策が犯人ではないか」と話し合ったという。