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連載昭和事件史

2021/06/19

「学資金を稼げば学校へ行けると、あさはかな考えから強盗殺人を企て」

 10月12日、誠策が在学中の浜松聾唖学校を捜査員が訪れ、動静を聞くと、誠策は第3事件の後、同校の友人に「人殺しをやったのは俺だ」と漏らしていたことが発覚。本人を追及し、所持品を提出させようとすると一時抵抗を示したが、そのうえで提出したズック靴の足裏の文様は、第2事件現場の敷布の足跡とぴったり一致した。浜松署に連行されて調べを受けた結果、10月13日、全ての犯行を自供した。誠策は1923年9月生まれで検挙時は19歳になったばかり。武蔵屋事件の時は14歳だった。

 各紙は犯人逮捕についての記事を出しているが、太平洋戦争開戦まで1カ月足らずの時期、事件の重大さに比べて扱いは驚くほど小さい。東朝、大毎、中部日本はいずれも2段。静岡だけは3面ほぼ全面を使ったフル展開だった。記事が抑えられている間にある程度の独自取材はできたものか、記事の内容には微妙に違いがある。その中でも、注目すべきはやはり動機だろう。東朝はこう書いている。

「兄弟7人のうち彼のみが不具であるため、幼少から家庭で冷遇された。成績はよかったが、彼の向学心は極めて強く、さる14年、浜松聾唖学校に入学。一、二番を争う好成績であったが、常に彼の関心は学費にあった。『よし、学費ぐらい自分でなんとかしよう』。恐ろしい事件の動機は全くここにあり……」。中部日本は「自宅で兄を惨殺し、父以下5名を傷つけたのは、一家を亡きものにすれば、自分をかわいがってくれる大阪の次兄が帰ってくるものと思い込んだ結果」とした。静岡は「父は家庭内でものけ者にし、極めて冷酷に扱い、犯人が『中等部へ入学せねばだめだ。学校さえやらせてくれるなら、家のことはどんなことでも素直にやる』と懇願したが、かえって父に廃学を強いられ、その冷酷を恨むのあまり、残忍性を露骨に表し、学資金を稼げば学校へ行けると、あさはかな考えから強盗殺人を企て、恐るべき犯罪を犯したものである外部からの侵入を装って恨みを晴らそうとしたが、父にはけがを負わせただけで、兄を殺してしまった」。

 ここまで書かれた父親は「あは(わ)れ死を以(もっ)て 社會(会)に陳謝」(静岡見出し)と、誠策が検挙された後の11月7日、家を出て天竜川で投身自殺している。

戦後に冤罪事件を続発させた「拷問王」のルーツともなった

 静岡新聞の11月17日付朝刊には「検挙の喜びを語る」検事正や県警察部長、浜松署長の談話、「変質者の犯行」とする内務省防犯技師の見解なども載っている。その中で目を引くのは「功績抜群の四氏」という記事。事件解決に「功績抜群殊勲甲」の4人が17日に検事総長から異例の表彰をされるというニュースだ。4人の中に写真入りの「犯人を直接検挙した殊勲者、浜松署刑事室・紅林麻雄部長刑事」がいる。これが戦後、物議をかもす事件の立役者だ。

「功績抜群の四氏」を伝えた静岡新聞の紙面。左上に「紅林麻雄部長刑事」が紹介されている

 戦後、静岡県では冤罪事件が続発する。幸浦事件、島田事件、小島事件、二俣事件。その事件捜査全てに関与したのが紅林刑事だという。佐藤友之「冤罪の戦後史」は「拷問王」と呼び、証拠の捏造を繰り返したと非難。その“ルーツ”に浜松連続殺人事件を挙げている。

 同書の元となった雑誌連載記事「冤罪の構造『静岡県警の研究』」第1回(「新評」1979年10月号掲載)にはこんな記述もある。「静岡県には『あいつは犯人に間違いない!』とする捜査官がいた」。浜松連続殺人事件の経緯を見ると、そうした思い込みが解決を遅らせたような気がしてくる。

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