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 じつは施設の入居者、とくに女性の大半が便秘である。それで就寝前に便秘薬を飲ませることになる。

 夜勤明け、日勤の職員が来ると、「〇〇さんと〇〇さんの便出た?」「量は?」「硬さは?」そんな会話が、挨拶代わりに交わされる。高齢者は腹圧が弱く、運動不足のため便秘になりがちなのだ。

 それでも長い期間排便がない場合には、肛門に潤滑剤をつけ、指で便をほぐしながら掻き出す作業を行なう。これを「摘便」という。ただし、この作業は医療行為にあたるので現在のところ、介護職の私にはできないことになっている。

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いつも私を気遣ってくれた松代さん

 松代さんは、小柄な体をベッドに横たえたまま、「あなた、給料ちゃんともらっている?」と尋ねる。「はい、ちゃんともらっていますよ」「5000円くらい?(*10)」「はい、それ以上もらっていますよ。安心してください」と答えると、彼女は目を細めて、「どうにか生きていけそうね」と微笑んだ。どうやら彼女はいつも、ほかの職員から叱られてばかりいる風采の上がらない私を不憫に思っているようだった。

*10 日給か、月給か、はたまた100歳の彼女がいつかの時代の給与と勘違いしていたのか知る由もない。仮に昭和25年とすると、月の平均給与は1万円程度らしい。やはり彼女は私を薄給の可哀想なおじさんと認識していたのかもしれない。

写真はイメージです ©iStock.com

 彼女の部屋の棚には当時、芥川賞をとった若手作家の小説があって、たまに読んでいたようだが遅々として進まない。本の間に挟んだしおりでそれがわかった。すぐに眠たくなるようだ。胸のあたりに本を広げた状態で眠っていることもよくあった。「この小説、面白いですか?」

 あるとき、尋ねたことがある。すると彼女は、「全然面白くないね。だからなかなか先に進まないのよ」との感想だった。「だったら、別の本に変えたら(*11)どうですか?」などと1世紀以上生きた人に言ってはならない気がした。そんじょそこらの年寄りとはわけが違う。

*11 高齢者向けの活字の大きい本が出版されていて、試しに施設に持っていったところ、子どもの本のようだと拒否された。

 自力では歩行も困難な彼女だったが、逆に私の体を気遣ってくれた。

「たまには栄養のあるものを食べないとダメだよ。ちゃんと食べている?」

 やはり私が貧乏人だと彼女は見抜いていたのだ。

 生涯2度目の東京オリンピックを楽しみにしていた松代さんはこの翌年、搬送された病院で亡くなった。

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非正規介護職員ヨボヨボ日記

真山 剛

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