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――今回の本には「火中の栗を拾いに行くようなもの」と書かれています。

阿武野 「こんな番組をつくって会社を危機に陥れるつもりか」と、当時の経営トップに言われましたね。ディレクターの齊藤潤一くんは家族に「そんな番組つくるの?」と言われ、何日も口をきいてもらえなかったそうです。私もタイムキーパーに「こうやって、赤ちゃんを殺したんでしょ」と殺害の仕方を身振りで再現しながら、まるで私が殺害したかのような目で見られました。効果マン(音効)も2歳の子供がいたので、この作品をやりたくないと後ろ向きでした。

 

――それでも制作したのは?

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阿武野 通常、刑事裁判の弁護団会議はほとんど撮影できません。けれども、この事件の弁護団に対しては、「ここまでは大丈夫です、ここからは退出してください」と言ってカメラを追い出したりはしないこと、つまり全部をオープンに取材できるという約束してもらい、そのうえで取材に入りました。

 そうやって包み隠さず撮るという作業をしたうえで、光市母子殺害事件とはいったいなんだろう、裁判制度とはなんだろう、弁護士とはどういう人々なんだろう、というようなことを冷静に描いていく。それで出来た番組を、同時代に生きる人たちに見てもらいたいと思いました。

 だけど「光と影」という番組を世の中に出すことすら許さないという人もいました。それが当時の東海テレビの経営トップだったんです。

「会社を危機に陥れるつもりか」経営トップとの対立

――それで「こんな番組をつくって会社を危機に陥れるつもりか」と言われるわけですね。

阿武野 問題が起きないもの、クレームが来るような番組などいらない、という考え方の人でした。それはテレビ局のあり方として根幹にかかわることなので、突破しないといけない。

 それで番組をめぐって経営者と制作者の私が一対一のぶつかり合いになったわけです。制作者が負けた場合には、その後、経営者の考え方をいちじるしく忖度しながら取材対象や取材地域、取材の方法を含めて考えざるを得なくなっただろうと思います。幸いなことに、当時の報道局長や編成局長が私を後押ししてくれたこともあって、放送に至ることが出来ました。

 だから、制作の自由度を確保するための第一ラウンドとして「光と影」があって、もし、これを潰されていたら、その後の東海テレビのドキュメンタリーはなかっただろうと思います。