テレビと「『わかりやすさ』という病」
――「『わかりやすさ』という病」という言葉が本に出てきます。テレビが「わかりやすさ」を安易に求めるのは、これまでのお話とも関係があるのでしょうか。
阿武野 わかりやすさを求めてしまうのは、視聴者に批判されたくないからでしょうね。毒にも薬にもならないものが求められていると思っているんじゃないですか。それで制作者は「すぐにわかってもらいたい病」になっている。すぐにわかってもらわなくてもいいという覚悟を持たないといけないと思います。
スタジオジブリの鈴木敏夫さんが「人はわからないまま置いておく能力がある」と言っていたんです。私もそう思うんですよ。願わくは、私たちの作品をテレビや映画館で見た人のなかに、もやっとしたものが残り、それが何年か後になって「ああ、あれは、そういうことか」と思うような、得も言われぬ時間軸で作品の表現を受け取ってもらえることがあったら、それは素敵だなあと思うんです。
――今の世の中は逆に、もやっとしたものを解決するのが流行りですね。
阿武野 「この作品で何が言いたいんですか」と言う人がいますよね。それを聞いちゃって、すっきりしたいんでしょう。
でも、もやもやすることが大事なんじゃないですか。先ほどの闇サイト殺人事件のご遺族の言葉も、上手に胸におちて来ないで、「あの人の悲しみはよくわかるんだけど、あの言葉はまだちょっとわからない。」と視聴者に思ってもらえれば、それだけでもあの事件をドキュメンタリーで表現した価値がある。
「こういう意見、違いますか」から「僕にはこう見えたんですよ」へ
――阿武野さんは東海テレビを「地域のテレビ局」と称します。
阿武野 「視聴者」という括り方は茫漠とした存在でれども、地域の人々に番組を届けるという気持ちで仕事をしていれば、ちゃんとしたコミュニケーションが成立すると私は信じています。啓蒙的な気持ちはなくて、発見したものを知らせたいだけです。「こういう意見、違いますか」と押し付けるのではなく、「僕にはこう見えたんですよ、違うかなあ」という感じですよ。片方が片方に押し付けるのではなくて、両方が真正面でぶつかりあっていると思いたい。
自分が取材者として、見つけたものをいち早くメディアに乗っけたいという気持ちがなくなったら、テレビマンとして終わりなんじゃないですか。ドキュメンタリーを作るときも、同じ考え方です。テレビの制作者は、取材していて発見したことがあると、それをどうにかして知らせたいという種族であると思っています。
写真=平松市聖/文藝春秋