浅草の喫茶店で女給をしていた充子…結婚後に待ち受けていたもの
事件に至る経過と犯行の模様については1948年7月2日の浦和地裁判決があるが、田中二郎・佐藤功・野村二郎「戦後政治裁判史録」も、裁判記録を基にしたと思われる記述が詳しい。突き合わせてまとめてみる。
充子は東京・浅草の喫茶店で女給をしていたときに語助と知り合い、相思の仲に。1940年6月、結婚し、3女をもうけた。
敗戦の年の1945年11月ごろ、語助は充子の実家近くに住宅を6000円(国内総生産ベースで現在の約305万円)で購入。川魚の漁獲販売などで生計を立てていたが、1947年末ごろから賭博に手を出して仕事が手につかなくなり、ついには約1万5000~1万6000円(同約55万4000~59万1000円)の借金を負うに至った。
そのため宅地5畝(150坪・約495平方メートル)を9000円(同約12万5000円)で手放し、充子のタンスなども処分。1948年1月ごろには借金を返済し終えた。しかし、語助は依然として正業に就かず賭博にふけったため、同年3月には自宅を5万5000円(同約76万5000円)で売却。うち3000円を充子に渡したまま、残り全額を持って千葉県野田町(現野田市)の博徒のところへ出かけて戻ってこなくなった。
家を失った充子は3人の子どもを連れて、埼玉県秩父町(現秩父市)の母の実家を頼って行ったが、同居を断られたため、3月13日、吉田村惣新田の語助の兄、浦和誠作方に行き、同家の物置2階の8畳1間に住まわせてもらうことになった。
しかし、語助は3月14日に3000円(同約4万2000円)を充子に渡しただけで、妻子を誠作方に押し付けたまま野田町の博徒の間を往来。充子らのもとに寄り付かないばかりか、誠作のところへ顔出しして妻子の世話を頼み入れることさえしなかった。そのため感情を害した誠作は再三、語助に顔出しさせるよう充子に催促。
充子はこのままいつまでも寄寓していることに苦痛を感じたが、かといって、そこを離れては、子ども3人を抱えて暮らしが立たないので、その都度、3児を連れて野田町の語助を訪ねた。そして自分たちのことを誠作に頼むように、また1日も早く自分たちを野田町に引き取るよう懇願したが、語助は願いを聞き入れようとはしなかった。