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藤井聡太二冠が「史上最年少九段」に そもそも、将棋界では「九段」とはどんなポジションか

藤井聡太二冠が「史上最年少九段」に そもそも、将棋界では「九段」とはどんなポジションか

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2021/07/05
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九段問題の論議のきっかけとなった第17期名人戦

 現在のような段位としての九段が創設されたのは1958年4月17日である。その九段昇段規定は「名人三期以上在位した者、在位二期でも順位戦の成績抜群の者」だが、なぜこのような規定が作られたのか。この年の第17期名人戦で升田幸三名人に挑戦者として名乗りを上げた大山をめぐって、その処遇が問題とされたのだ。山本武雄九段著の「将棋百年」に以下のような記述がある。

〈かくして、大山前名人は復仇を期して、升田名人と対決することになったが、問題はその処遇である。「前名人の呼称は一年限り」という約束から、八段として名人戦にのぞむはずだが、すでに「永世名人」の資格も取っていれば、九段のタイトルを二期、ほかにも数々のタイトルを獲得している人を、たんなる八段とすることは、常識的に考えても出来かねる話で、これが発端となって、九段問題が論議され、関係新聞社と話し合いのうえで、従来、全日本選手権戦の優勝者にだけあたえられていた九段位の門戸が開放され、新たに「九段贈位規定」が制定された〉

 この規定により升田、大山の2名が九段に昇段した。補足すると、当時の三大タイトルの残る一つである王将を大山はこの年の3月29日に升田から奪回している。そして第17期名人戦の挑戦者が決まったのはプレーオフの末の4月12日だった。もし大山がもっと早くに王将を奪回していたら、あるいは名人挑戦権を早々に逸していたら、この時点で九段昇段規定が作られていたかどうかは「歴史のイフ」だろう。

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大山康晴十五世名人 ©文藝春秋

将棋界と囲碁界の九段の“差”

 将棋界の九段は長らく塚田、升田、大山の3名という時代が続いたが、1973年に規約が改訂された。昇段の条件が緩和され、「九段昇格規定30点」と「タイトル3期」の2つが加えられた。タイトル3期のほうはわかりやすく、現在まで継続している規約だが、前者のいわゆる30点規定について補足すると、棋士の実績を

〈タイトル獲得期数×3+タイトル挑戦回数+一般棋戦優勝回数+A級以上在籍年数〉

 という数字で計算して、その点数が30点に達したら九段に昇段するというものである。

 この規定改訂により、1973年11月3日に丸田祐三、二上達也、加藤一二三、中原誠の4名が九段に昇段した(30点規定では、のちに米長邦雄と有吉道夫の2名が九段に昇段している)。そして、1974年2月4日に内藤國雄が九段に昇段したのが、タイトル3期による初の昇段だった。

 規約改訂の背景には、囲碁界と比較して将棋界の九段は少なく、八段の将棋棋士が九段の囲碁棋士と同席した際、段位によって待遇に差をつけられることがあったため、将棋界も九段を増やそうという動きがあったのが要因とされている。