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“儀礼的最高位としての天皇なんかはいらない” 歴史探偵・半藤一利が史料から読み解く「織田信長の極限思想」

『手紙のなかの日本人』より #1

2021/07/29

source : 文春文庫

genre : ライフ, 読書, 社会, ライフスタイル, 歴史

note

秀吉が信長につけられていたあだ名

 ここで気付かせられるのは、秀吉が「はげ鼠」というあだ名を、信長につけられていたらしいことである。画像なんかに描かれた秀吉をみると、なるほど、よくぞつけたりの感がしないでもないところが、実におかしい。が、秀吉のあだ名は御存知「猿」ではなかったか、の疑問が余計なことながら残る。そのことについても、たしかな史料としての信長の手紙が現存している。

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 細川藤孝、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の四人あてで、日付は天正5年(1577)3月15日のことと推定される。

 猿帰り候て、夜前の様子、つぶさに言上候。まづ以て然るべく候。又一若を差遣はし候。其の面、油断なく相聞え候といへども、なほ以て勢を入るべく候。各辛労、察せしめ候、今日の趣、徳若に申越すべく候なり。

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手紙が貴重な史料である所以

 冒頭の猿は、言うまでもなく秀吉である。これで秀吉が猿といわれていたことが明確になる。手紙が貴重な史料である所以である。そして手紙は、その秀吉が帰ってきて昨夜の様子をくわしく報告した。まずはそれでよかろうと思うが、なお油断なく一層努力せよ、と信長が武将たちにはっぱをかけている。信長の戦いぶりがおよそ察せられる文面になっている。

 それにしても、その日付からみると、このころ紀州の根来・雑賀の一揆軍を掃討せんと、武将たちは総出陣していたときである。秀吉も当然のことながら、草履取りとか足軽大将なんかではなく、長浜に城のある12万石の大名になっている。その彼を、他の武将への書簡で「猿」よばわりするとは……。いろいろ考えさせられる面白さがある。

 ところで、ここまで信長の手紙と書いてきたものの、信長の真蹟はほとんどない。現存する手紙は百通を超えるというが、正確にはほとんど信長の祐筆の手になり、自筆はほんの2、3通にすぎないという。今日にいう口述筆記である。そして日付の下に信長の署名や花押が書かれ、印章が押されている。印章では永禄10年(1567)、美濃の斎藤氏を滅ぼしていらいの、ご存じ「天下布武」が押されているのが多い。