関白をはげしく罵倒し、朝廷の祭祀のあり方を批判
信長は執拗に朝廷にいって元号を「天正」に改めさせた。天正6年、「天下が定まるまで右大臣の職を辞する」と申し出て朝廷をあぜんとさせている。天皇から任命される官職に就きたくなかったのである。天正九年、正親町天皇に対して突然に譲位を強要する。同じ年、関白近衛前久をはげしく罵倒し、朝廷の祭祀のあり方を批判した。また、天正10年、朝廷の暦製作権にも介入している。
改めて説くまでもなく、改元・皇位継承・官位叙任権・祭祀(国家祈祷)、そして暦製作権は、建国以来保持してきた天皇の至上最高の権限である。日本古来の自然発生的な儀礼的秩序といっていい。その朝廷の秩序にことごとく信長は異をたてた。
若いころの信長の、興味深い言葉が、『明良洪範(めいりょうこうはん)続篇』という書物に残されている。
「王という者は如何様なる者にて候や。厨子などに入れて置く者か、または人にて候や」
信長の王すなわち天皇観が偲ばれる。ましてや天正10年ともなれば、いまやおのれが独裁する日本国という主権国家がここにあり、そのなかの儀礼的最高位としての天皇なんかはいらない、という極限のところにまで信長の思想は達していた、とみてもいい。いまでいう「天皇機関説」もいらない、となれば、信長自身が国の家父長としての権限も行使する、つまり天皇になるほかはないのである。
信長は、朝廷とか公家社会といった中世的常識とは無縁であった。それゆえに、その政治的行動が近世への重い幕を開こうとしたが、逆に、その無縁さゆえに結果として自分の命を滅ぼしてしまったことになる。
『信長公記(しんちょうこうき)』に描かれた信長の最期の言葉はこうである。
「明智が者と見え申し候と、言上候へば、『是非に及ばず』と、上意候」
ただの一言。これまた簡潔この上ない。「是非に及ばず」と戦いつつ死ぬ。いかにも信長にふさわしかった。
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