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“儀礼的最高位としての天皇なんかはいらない” 歴史探偵・半藤一利が史料から読み解く「織田信長の極限思想」

『手紙のなかの日本人』より #1

2021/07/29

source : 文春文庫

genre : ライフ, 読書, 社会, ライフスタイル, 歴史

note

信長の人柄が表れた文面

 一般に祐筆書きといえば、文書のきまりどおりの、型にはまった面白みの薄いものばかり、といっていい。ところが、信長は違う。迅速を好む人柄ゆえ、事務的な文面が多いのであるが、そこはそれ、さすが信長である。どれにも彼らしい簡潔さ、直線的な鋭さがみられる。さきの、いきなり「猿帰り候て」の書き出しなんか、余人にはとても見られない爽快さである。祐筆の手になるとはいえ、信長のしゃべりがそのまま伝わってきて、えらく信長が身近に感じられてくる。

半藤一利氏 ©文藝春秋

 また、秀吉夫人おねあてもよそゆきでないざっくばらんさがある。それに信長は見かけによらず、なかなかにおんな心にも、通じていたようではないか。

 もう一通、18歳と最も若いころの手紙も例に引いておく。

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 竹の事申し候ところ、弐十本給はり候。祝着の至りに候。なほ浄看申すべく候間、省略候。恐々謹言。

 竹を所望したら20本送ってきた。その礼状である。大事にするつもりである。あとは略すなんて、傑作な文章ではあるまいか。

 このように書簡は、この天才的武人の性格をそのままに示している。男らしく、きっぱりとしていて、その上に柔らかい心ももっている。ところが、政治的人間としての信長となると、そうはいかない。そこがこの人の面白さといえばいえるのであるが……。

政治人間信長の根本とは

 信長は、天文3年(1534)、四囲すべて敵の、尾張の一豪族の子に生まれた。そして、非凡な発想と独創にみちた行動によってあたりを平定し、「天下人」になったのは、実に天正4年(1576)という早さなのである。琵琶湖に面した安土に、日本最初の七重の天主閣をもつ城を築き、完備した城下町をつくり、楽市楽座を中心にした革新的経済政策を実行と、やることなすこと当時の人びとの理解をはるかに超えた。兵農分離や方面軍制戦闘組織などに至っては、もはや近代人の意識をもっていた。

 書簡の簡潔さが示すように、政治人間信長の根本にあるのは徹底した機能主義である。書簡の様式が破天荒なのも、彼が中世的な繁文縟礼(はんぶんじょくれい)をうるさがったゆえである。おそらく、中世的な伝統や秩序や教養などは虚飾にみちた阿呆の世界、と映じていたにちがいない。