非情なまでにしたたかな現実主義
信長がすべての人間に要求したのは、あくまでも合理的な機能であって、かびのはえた伝統や、湿っぽい忠誠心などではなかった。鳴く機能をもっている時鳥(ほととぎす)が、もはやその機能を失ったというのであれば、飼っておく必要はないのである。癇癪持ちとか残忍ということではない。彼にあっては家柄とか門閥とかは鳴く機能を失った時鳥みたいなもの。ゆえに世間のしきたりや、形式万能の風潮を完膚なきまでに打破した。そのことは考えてみるまでもなく近代の合理精神に通じている。その意味で信長の思想と行動は、徹底した合理性につらぬかれており、非情なまでにしたたかな現実主義の上に立っていた。
しかし、現実には、彼の思想と行動とが、まったく理解されないのであるから、多くの人びとを恐怖にかりたてた。専制君主としての強圧が人びとの不安をよりつのらせた。
たとえば、比叡山焼き討ちがある。今になっても極悪非道のことのように説くひともいるが、歴史的事実は非が明らかに比叡山側にあることを示している。第一に、朝倉・浅井と結んで敵対する山門に対して、信長はきちんと外交交渉の誠意をみせている。そのとき出した信長の条件は、
一、信長に味方するなら奪った山門領はすべて返還する。
二、味方になれぬなら中立を守れ。
三、そのいずれものめぬなら根本中堂をはじめ山王二十一社すべて焼き払う。
という内容である。これに山門はひと言の返事もしなかった。尾張の小せがれ風情に何ができるか、という無言の宣戦布告は、いってみれば300年間の山門の横暴と驕慢に根ざし、背景には強大な武力がある。修行の山でも、仏の山でもなくなった比叡山は、信長にとっては、鳴かぬ時鳥にすぎなかった。
こうして時代とまったくかけ離れた個性が、時代に圧しつぶされずに、時代の方を征服したのである。理解もされないままに。信長のすごさがそこにある。しかし、同時に信長の悲劇が、時代を超越した合理性と新感覚にあるのも、また事実である。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀謀叛と聞くと、信長はみずからも槍をとって防戦したが、衆寡敵せず、本能寺に火をかけて、自害する。享年49。あまりに早い死であった。
歴史探偵のわたくしは、信長を葬る陰謀の陰に朝廷筋ありとにらんでいる。なぜなら、少しく思い当たる節があるからである。