東京五輪初戦で世界ランク24位のケニアを下した女子バレー日本代表だが、その戦いの中でチームの中心選手・古賀紗理那(25)が負傷退場。古賀が欠場した続く第2戦のセルビア戦はストレート負け、強豪ブラジルにもストレート負けを喫した。1勝2敗となりA組4位に転落した背水の日本代表は、7月31日、因縁のライバル・韓国と1次リーグ突破をかけた大一番に挑む。
指揮を執るのは前回のリオ五輪終了後から代表監督を務める中田久美だ。「バレー界初の五輪女性監督」となった中田には五輪にかける並々ならぬ思いがあった――。ジャーナリストの吉井妙子氏が寄稿した「文藝春秋」2019年9月号の記事を転載する。(※日付、年齢、肩書きなどは当時のまま)
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1964年東京五輪の翌年に、父・博秋、母・光子の一人娘として東京練馬区に生まれた。共稼ぎだった両親は娘が興味を持つものは何でもやらせた。バスケット、卓球、そろばん、習字、ピアノ、学習塾……。毎日忙しく、鍵っ子が寂しいと思った記憶がない。水泳で頭角を現し、五輪を目指そうと決意する。
「なぜ、オリンピックというキーワードが頭に入ったのか不明ですが、とにかく小学生の頃からオリンピック選手になりたかった」
だが現実の厳しさを知り、中学に入って水泳をやめバレーを始めた。中学1年の終盤、全日本女子監督山田重雄が主宰するジュニア育成機関「LAエンジェルス」の募集広告を目にした。両親に相談したところ、当初は反対されたがどうせ受かりっこないと、受験だけは許された。7人の募集に全国から900人の応募があったものの、当時、身長168㎝で最高到達点が2m86㎝と現在の全日本並みのジャンプ力があったことが、山田の目に留まった。
「自分の人生は自分で切り開きなさい」父の言葉が出発点
中田はバレーで五輪を目指そうと決意。寮生活を送るには、日立の体育館に近い小平4中に転校しなければならない。両親はこの転校に猛反対。無理もない。一人娘を中2で手放すのは、自分の身を剥がされるようなもの。だが、娘の本気度を察知した父は、娘を真っ直ぐ見つめた。
「自分の人生は自分で切り開きなさい。その代り、しっかり考え後悔しないように」
中田が当時を述懐する。
「この時の父の言葉が、私の人生の出発点になった気がします。これから先は1人で歩かなければならない、って」
13歳の春だった。