29歳で結婚し、3年後に離婚。パリコレモデルも経験
18歳でロサンゼルス五輪に出場し、銅メダルを獲得。20歳で全日本の主将になり、いざこれからという時に膝の前十字靱帯を損傷する大怪我を負った。その後遺症に悩まされながらもソウル五輪、バルセロナ五輪でトスを上げ、大林素子や吉原知子、多治見麻子など有数のアタッカー陣を育て、27歳で12年間の現役生活に終止符を打った。
29歳で結婚し3年後に離婚。その後、パリコレモデルやテレビのコメンテーター、解説者として活躍していたが、07年に父が死亡。癌を宣告され3カ月の命だった。
「病院のベッド横の引き出しに、父の文字が乱れた般若心経が入っていた。でも『お父さんの人生は幸せだったの』と聞くと『ああ、思い残すことは何もない』って」
中田は衝撃を受けた。自分は人生の最後を迎えるとき、父のような言葉が吐けるだろうか。これまでの人生を振り返る。玉ねぎの皮を剥(は)ぐように自分の過去を一枚一枚めくると、金メダルという芯が顔を覗かせた。引退した時に固く蓋をしたはずのものが、心根ではまだ燦然(さんぜん)と輝いていたことに自分でも驚いた。指導者になればそのチャンスはある。自分の手で金メダルが獲れる選手を育て上げたいという欲求が湧き上がった。42歳になっていた中田にはもう時間がなかった。
選手は聞く耳を持たず、見下した態度にペットボトルを…
バレー界に復帰すると決断した中田の行動は早かった。指導者の勉強をしようと無給コーチとして単身イタリアに渡る。1年目のヴィチェンツァでは、言葉が通じないこともありネット張りやボール拾いなど用具係のような仕事もこなした。セッターに指導しようとしても選手は聞く耳を持たない。あまりに人を見下した態度に、中田はペットボトルを投げつけ家に帰ることもあった。
2年目のノヴァラでは、午前中に現地の小学校でイタリア語を学びながら、ジュニアの指導もさせられた。中田にとってイタリアでの2年間は屈辱の日々だったという。
「自分の感情はぐしゃぐしゃになったけど、でもこの感情を絶対に力に変えなければと思った。イタリア人に何されようが、どうあしらわれようが、本当に自分が現場に戻りたいのか見つめ直す時間だったので、遣り切ることの方が大事だった」
それでも、当時データバレーの最先端と言われていたイタリアバレーのノウハウ、そして練習方法などをしっかりメモし帰国した。
「あの2年間は、今の私の血となり肉となっています。だから帰国してまもなく久光から監督として招聘された時も不安はなかった」