「金を獲るには、親さえも捨てなければならない」
その一方、日立の体育館に一歩踏み入れた途端、大変なところに来てしまったと足が竦んだ。体育館の壁一面に、モントリオール五輪の金メダリストたちの写真が掲げられていた。子供心に、日立に来た以上この人たちが築いてきた伝統を守らなければならないと悟った。
「この時点で私の覚悟は決まったような気がします。金を獲るためには、すべてのことを捨てなければならないって。親さえも……」
日立の体育館には1か所だけ、床が白っぽく変色した場所があった。中田が1人でトス練習を繰り返した場所だった。中田の大量の汗が、床を変色させてしまったのである。だが、床を変色させてしまうほどの汗の量は正直だった。チームの司令塔となるセッターは最低5年の練習が必要と言われるが、中田は2年で技術をマスター。15歳で早くも全日本入り。「天才少女」と謳(うた)われた。しかし中田は天才説を否定する。
「すべて繰り返し練習の賜物です。ただ、一球一球に意志を込めた。10万回トス練習をしたら、10万通りの意志があった」
中学卒業時にまた岐路に立たされた。両親は当然のように高校進学を勧め、山田もバレーに理解のある高校への進学を助言。中田は逡巡したが、高校進学を断念。あの時の決断が、今の自分を作ったと述懐する。
ロス五輪まで2年。高校をあきらめた
「ロス五輪まであと2年。時間がない。高校に行ったら金メダルは獲れないと思った。東洋の魔女、モントリオールの伝統を守るために高校を捨てざるを得なかった。両親には通信教育で卒業すると約束しました」
15歳から18歳の多感な時期に中田は過酷な時を過す。当時、シニアの前座としてジュニアの試合が組まれ、両方を掛け持ちしていた中田は、1日で10セットトスを上げることもあった。泥のように疲れていても、夜になれば通信教育の勉強が待っている。
「しかも、ジュニアとシニアではサインが違うからいつも頭がパンパン。もちろん、辞めたいとか、私は何をやっているんだろうと日々葛藤がありましたけど、しばらくするとそれが日常になってしまうんです」
東大EMP教官の横山は、中田の頭の良さはこの頃に自己対峙を繰り返したことによって磨かれたのではないかと推測。エッジを求めるフチ子さん的な性格も、この時に築かれたのだろう。