ところが当時の日本社会党では、女性衆議院議員は土井と金子みつの2人のみであり(金子は1990年に引退する)、女性参議院議員も14人で、うち新人が9人だった。クオータを推進しようにも、下から原動力になる勢力がなかったのである。土井は、女性候補者集めに獅子奮迅の働きをしたと思われる。しかし1990年1月の解散までに、無所属の外口玉子・岡崎宏美を入れて13人しか女性候補を集められなかった。9人が当選したが、これは、社会党・社会党系無所属計の139議席に対して6.5%であった。
進まなかった党内変革
先進国では、イギリス・フランスで女性議員が少なかったが、その後伸びた。イギリス労働党は、1987年の選挙で、当選者229人に対して女性は1割弱であった。フランス社会党は、1988年選挙で、275人当選のうち女性は17人で、6.2%であったが、その後、女性議員の数は、イギリスでは労働党、フランスでは社会党を中心に、30%を超えて伸びていく。土井時代の社会党内部で、女性の抜擢の必要性がもっと共有されていたなら、その後の日本における女性の政治代表の様相も変わっていただろう。
また、社会主義を目指す党から西欧の高度成長期の社会民主主義型の党へと変身することが、石橋執行部の「ニュー社会党」路線でようやく認められたものの、なかなか進まなかった。社会民主主義は、拡大するパイを労働者に分配し福祉を拡大することを核としていたが、低成長期に入って従来のような再分配路線は行き詰まった。社会民主主義政党に替わり、イギリスのサッチャーや西ドイツのコールのような、新自由主義・新保守主義が台頭した。これを克服するには、政治学者の真柄秀子のいうように、労組への過剰な依存を止め、女性・市民と結び、労働組合がボランタリィグループなどと提携し、失業を時短などにより回避し、労働の細分化を防ぐラディカル・リベラルな路線を取ることが求められていた。