ワシントン転勤にともない、2年間アメリカで居住した結果は
その島津貴子さんが日本輸出入銀行に勤める夫の久永さんのワシントン転勤にともない、1964年5月から1966年5月までの約2年間、アメリカで居住することになった。出発後、サンフランシスコに立ち寄った島津夫妻は記者会見を開き、貴子さんは「社交界に進出するよりも、主人の仕事をやりよくするために居心地のよい家庭をつくることが願いです」と述べた(「朝日新聞」1964年5月4日)。高度経済成長期の主婦らしく、家庭を守る存在としての女性像が全面に出た言及である。
そして貴子さんは、「それに日本ではなにかと雑事に追われて、坊やには必ずしもいいママではなかったから、ワシントンでは子どもに大いにサービスしようと思っています」と続けた。すでに長男が誕生していたが、日本にいたときは元皇族として「何かと雑事に追われて」忙しかったため、初の海外生活ではそうした喧噪から逃れ、子育てに集中したいと述べたのである。
「人目にたたず、ひっそりと暮らせた」を夢見る眞子さま
自由に振る舞っていたように見えた島津貴子さんも、先の誘拐未遂事件などに代表されるように、息苦しさがあったのではないか。実際、翌年の1月に彼女のアメリカ生活の様子を伝える記事では、「日本にいる時よりもしあわせ。市民として、何の精神的な圧迫もないし……」との感想を寄せている(「朝日新聞」1965年1月1日)。記者はその島津貴子さんの様子を「アメリカ生活の楽しさを語った」と表現した。楽しそうにメディアに登場し、自由活発な発言を繰り返す彼女も、元皇族としての悩みや苦しみがあったのだろう。アメリカに来、それから解放された喜びに溢れていたのではないだろうか。
帰国時の記者会見では、「こちらに住んで一番重要だったことは、人目にたたず、ひっそりと暮らせたことでした」と最後に述べた(「朝日新聞」1966年5月28日)。これが島津貴子さんの率直な感想だったのだろう。時代が異なり、ネットもある現在、アメリカ社会が元皇族の女性をこの時と同じように「人目にたたず、ひっそりと暮らせ」るようにするとはかぎらない。
しかし、世間からの批判を浴びてきた眞子内親王は、こうした暮らしを夢見て、ニューヨークへ旅立とうとしているのではないだろうか。元皇族として、あくまで日本国内では「公」の立場であることを意識しつつ、海外に出て「私」の時間を満喫した島津貴子さん。「私」を貫いて小室圭さんと結婚をし、報道によれば渡米前に婚姻届を提出して秋篠宮邸を離れ都内のマンションで一刻も早く「私」の生活を送りたい眞子内親王。この二人のあり方は時代の流れもあるだろうが、対比的にも見える。