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2021/09/13

genre : ライフ, 歴史, , 社会

玉川上水沿いを歩く

 さて、あまり賑やかではない住宅地ばかりの駅前の横田基地への貨物線を見たところで、今度は南口に戻ろう。橋上駅舎の自由通路を歩いて線路を跨いでもいいが、ちょっとつまらない。地図によると拝島駅の北側には国道16号がオーバーパスしているようなので、そこにむかってしばらく玉川上水沿いを歩く。

 

 玉川上水は江戸時代の初めに玉川兄弟によって開かれ、江戸の人々に飲み水を運んだ上水道だ。その始まりは拝島駅より少し北、青梅線羽村駅の西で多摩川から分かれ、拝島駅付近を通って西武拝島線と並走。その途中の小平監視所までは今でも玉川上水を流れる水が東京都民の上水として使われている。太宰治が入水したのはさらに下流の三鷹付近。最終的には新宿御苑のあたりまで続く。

どうして拝島に“日光”の文字が?

 拝島駅のすぐ脇、国道16号の真下を線路と並んで流れるこの区間の玉川上水を渡る小さな橋は、「日光橋」と名付けられている。日光といえばあの見ざる聞かざる言わざるの日光だ。拝島と日光はあまりに遠いが、いったいどんな関係があるのだろうか。調べてみると、拝島の街の発展に大きくかかわっていることがわかった。

 

 今では昭島市・福生市の境界に位置する拝島駅と拝島の街だが、かつては拝島村という独立した村だった。いまの拝島駅前よりもかなり南側、いまでも昭島市内に「拝島町」という地名が残るが、多摩川に近いそのあたりが拝島の中心だった。江戸時代中頃以降は、八王子や青梅に次ぐ規模の市が立っていたという。

 というのも、拝島は八王子と日光を結ぶ日光脇往還の宿場のひとつだったのだ。なぜ八王子と日光を結ぶのかというと、八王子千人同心が日光勤番に赴くため。日光という徳川将軍家にとって何より大事な地の守りを固めるために、日光脇往還は重要な街道のひとつだったというわけだ。そして、その最初の宿場が拝島だった。いまに残る駅の脇の「日光橋」という名の橋は、日光脇往還時代の名残である。

 

 といっても、今や拝島から日光まで歩いていく必要もないしそんな酔狂なことをする人もいない。むしろ、国道16号が玉川上水と線路を跨ぐオーバーパスのほうが花形だ。沿道は再開発が進められているようで殺風景だが、行き交うクルマが絶えることはない。

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