大量のカロリー摂取にも関わらず
かなり大きい。通常のおにぎりの2.5倍はありそうな大きさだ。魚の骨が喉に刺さっている僕は、そのおにぎりを多めに頬張った。味が濃そうな油味噌も、かなりの量がおにぎりの中に入っている。そして、ろくに噛まずにそれを飲み込んだ。飲み込んだ直後にわかった。骨は取れていない。痛みは続いている。なので一口、もう一口と、僕はカロリーを飲み込んでいった。摂取したくないカロリーを摂(と)り、味わいもせず飲み込む。僕に何の罰が与えられているのだろうか。喉に刺さった魚の骨は取れないまま、終(しま)いに僕はカロリーを全て食べきってしまった。
友達3人もしばらくすると、テンションが下がっている僕にも慣れてしまって、キツめのハブ酒を飲んだり、サーターアンダーギーにアイスがかかったデザートを食べながらはしゃいでいる。僕はその楽しそうなノリに参加する気になどなれない。何故なら魚の骨が喉に刺さっているからである。しかしながら、魚の骨が喉に刺さっている友達が目の前にいるのに、酒や甘味ではしゃぐのもどうかしている。きっとコイツらは魚の骨が喉に刺さったことがないんだろう。この世には2種類の人間がいる。それは魚の骨が喉に刺さったことのある人間と、ない人間である。魚の骨が喉に刺さったことのない人間は、得てして魚の骨が喉に刺さっている人間を見下しがちである。
魚の骨が喉に刺さっていなかった頃は良かった…
僕は、喉の奥の痛みを抱えながら、魚の骨が喉に刺さっていなかった頃は良かったなぁ、などと考えていた。普段何気なく生活してきたけれど、いざ魚の骨が喉に刺さってみると、あの普通の日々は幸せなことだったんだと気付くのだ。しかしその頃にはもう遅く、魚の骨が喉に刺さっていない日常はもう戻って来ない。この先は魚の骨が喉に刺さった人生なのだ。魚の骨が喉に刺さると、それらを思い知らされるのである。
もう家に帰って寝たい。もしかすると寝て起きたら魚の骨が取れているかもしれない。そう思った僕は、友達3人に「今日はもう帰るわ」と告げた。それが恥ずかしいことだというのはわかっている。何故なら大人なのに魚の骨が喉に刺さったくらいで帰るからだ。だが魚の骨が喉に刺さったまま何をしていても楽しくないし、友達も魚の骨が喉に刺さった奴と一緒に居ても楽しくないだろう。お金を置いて店を出て、家に帰った。そしてその日は早めに寝たのだ。