幕あけの画は声を失うほどショッキングだ。
瀟洒に設えられた家の中で、いつものように泥酔して暴れ回っている父親。あたりには割れた皿の欠片や生ゴミと化した料理が散乱している。母親は腹を蹴られて海老のように丸まり、妹は「目が見えない」と泣き叫ぶ。13歳の「僕」は、薪割り用の斧を握りしめ、父の後頭部に向かって真っ直ぐに振り下ろす――。
本作の主人公である「僕」こと史也は、幼い頃から家庭内暴力をふるい続けてきた父親を殺しかけた過去を持つ。周囲の大人たちによって真実は隠蔽され、遠方に住む伯母のもとへと預けられた後、大学進学を機に上京。現在は建築専門のカメラマンのアシスタントとして働いているが、当時の陰惨な状況を夢で見ることを繰り返している。つまり成人した今でも、壊れた家族の記憶の中にひとり閉じ込められているのだ。
ある日、撮影中に手首を痛めたことで、整形外科の看護師として働く女・梓に出会う。強引に部屋に転がり込んできた梓に当初は困惑しきりだったものの、彼女が赤ん坊の時に母親に捨てられたことを知った史也は、共に故郷に向かい、「家族」と呼ばれるもののありようと向き合う決意をする。
梓は言う。「あなたはこっち側の人間だもの」。それは彼女たちが選んだ立場ではない。線を引いたのは――すなわち彼女たちをまとめて「こっち側」に押しやったのは社会の側なのだ。その歪みを象徴するのが、史也が通うキャバクラで働く水希という人物だろう。腕にリストカットの痕を残し、中指の吐きだこを見せる彼女は客に向かって「メンヘラ」を自称する。そうやって自ら結界を張ることで、世間の無理解から懸命に身を守ろうとしているのだ。
苛烈な家庭環境やトラウマから辛うじて生き残った史也のような者たちは「サバイバー」と呼ばれる。しかしその経験は本来、誰ひとりとして同じではない。互いの傷を舐め合うのではなく、むしろそれぞれが他者であるという事実の強さに触れた史也と梓は、内側の空白に食い破られる前に、自分の人生の輪郭を自分の手で確かめることを選ぶ。
窪美澄の小説を語る上で欠かせない特徴のひとつ。それは、閉鎖空間の中で苦しみながら生きてきた者たちの姿に加え、彼ら/彼女らの「生業」を描くことに多くの力が割かれる点だ。
抑圧を受けて育ったせいで殻に閉じこもっていた史也は、「撮る」という仕事を通じて他者と関わり合う術を身につけ、自分を認めることの大切さを知る。それは経済的な自立以上に、家族の軛(くびき)から解き放たれ、個人としての生を獲得していくプロセスでもある。
誰かが誰かに棄損されることなく、ただシンプルに生きていくためのわざ。窪の小説には、いつだって実直な祈りが込められている。
くぼみすみ/1965年、東京都生まれ。2009年「ミクマリ」で「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞。11年『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞、12年『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞、19年『トリニティ』で織田作之助賞を受賞。
くらもとさおり/1979年生まれ。書評家。共同通信「デザインする文学」、文藝「はばたけ! くらもと偏愛編集室」等が連載中。