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2021/09/28

genre : ライフ, 歴史, , 社会

戦後、軍事施設は…

 戦後、これらの軍事施設はほとんどが姿を消すことになる。津田沼駅前の鉄道連隊ももちろん消滅。その跡地の北側には千葉工業高校、南側には千葉工業大学が置かれた。千葉工業高校は1967年に移転して跡地を新京成の線路が貫く形となって、いまはその北端にイオンモールが建っている。

 

 南側の千葉工業大学はいまも健在。鉄道第二連隊の正門は千葉工業大学の通用門として残っており、津田沼の歴史を物語る貴重な文化財になっている。また、鉄道第二連隊が使用していた蒸気機関車は千葉工業高校跡の小さな公園の中に展示されている。

 
 

 あまり目立つところではないが、こうして“鉄道連隊の町”だった津田沼の歴史が伝えられているのだ。

 その後の津田沼は、東京からもそれなりに近いということもあってか急速に商業都市として発展していく。津田沼駅が“終着駅”にもなっている理由は駅のすぐ西側に車両基地があるからだが、こちらも戦前の1935年の開設。広い敷地を要する軍事施設や車両基地が駅の周りに集まっていたということからも、いにしえの津田沼がまったくいまとは違う原野だったことがうかがえる。

 

 かつて塩田も広がっていた海側は埋め立てが進み、すっかり住宅地として様変わりしている。ラムサール条約にも登録されている谷津の干潟は京成電鉄による谷津遊園としての開発を経て、いまでは地元の人たちの憩いの場になった。

 半農半漁、塩田もあった古き津田沼と、近代以降の軍都としての津田沼を経て、商業都市へと移り変わった。そうした津田沼の歩みは、たくさんの人が絶えず行き交う津田沼駅のペデストリアンデッキに結実しているといっていい。

 

 そういえば、津田沼駅のホームには習志野市と船橋市の境界を示すマークが貼られている。このコロナのご時世、やたらと自治体の境がクローズアップされる機会が増えた。市境を意識するのも悪いことではないのだが、津田沼の歩みを考えたときに、案外にこれは些末なものなのかもしれない。

 

写真=鼠入昌史

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