「津田沼」がいまの姿になる前、そこには何があった?
このように、千葉県西部を代表する商業都市である津田沼。だが、そうした町になった歴史は意外と浅く、戦後になってからである。それも1970年代以降のことで、相次いで大型商業施設が進出して熾烈なお客の奪い合いを繰り広げるとともに、いまのような商業都市へと変貌していった。過去には高島屋が出店していたこともある。
となると、それ以前には何があったのだろうか。
ここで津田沼の歴史を振り返ろう。津田沼は谷津・久々田・鷺沼の3村から名を頂いた合成地名だという話は最初に書いた。津田沼の名が誕生して津田沼村が発足したのは1889年のことだ。1895年には津田沼駅が開業し、1903年に津田沼町に昇格している。
その頃の津田沼の中心はいまのJR津田沼駅の駅前ではなく、津田沼駅南東にある京成津田沼駅付近。古くは久々田と言われていた地域にあたり、東京湾に向かって集落が広がっていたようだ。
その頃の海岸線はいまの国道14号、千葉街道あたり。東京湾沿いの漁村であり、海際では塩田も開かれていた。京成津田沼駅が開業したのは1921年と比較的後になってからのことだが、古くからの市街地に面した駅としての開業だったというわけだ。
小さな村に“陸軍”がやってきた
では、現在のJR津田沼駅はどういう役割をもって開業したのか。答えは、“陸軍”にある。
津田沼駅よりも北側、いわゆる習志野と呼ばれる一帯は広大な陸軍の演習場になっていた。江戸時代には幕府直轄の放牧地で、明治のはじめに近衛兵の演習が行われたのが軍都・習志野の始まりだ。この折に習志野と名付けられたという。つまり、陸軍演習場の玄関口という役割を期待されて津田沼駅は開業したことになる。
それでも日露戦争前後までは津田沼駅周辺は半農半漁の小さな村に過ぎなかったが、陸軍演習場の近くという立地から日露戦争後に大きく変貌してゆく。1907年、津田沼駅周辺に陸軍鉄道連隊がやってきたのだ。
鉄道連隊はその名の通り、鉄道の建設や運転を任務とする部隊である。大量輸送を実現する鉄道は戦地における物資や兵隊の輸送にうってつけであり、損傷した既存線路の修理から臨時に鉄道を建設して輸送路を確保するなどといった役割が期待されていた。その連隊が、津田沼駅を取り囲むように設けられたのだ。鉄道連隊はのちに2個連隊に増設され、1918年以降津田沼に置かれていたのは鉄道第二連隊である。
ともあれ鉄道連隊の存在は津田沼のシンボルのようになった。津田沼駅周辺には兵隊さん相手の商売を見込んだ商店が開かれて、まさに軍都・津田沼の様相を呈した。戦地での鉄道建設を担う鉄道連隊だから、平時も訓練として鉄道建設をせねばならぬ。その演習線として建設されたのが津田沼駅徒歩5分の新津田沼駅で乗り換えられる新京成線だ。