文春オンライン

2021/11/10

〈僕にとって大きな出会いとなった監督です〉

 高倉は、その三國さんについて、

「連ちゃんの台本、見せてもらったことがあるんだけど、もとの活字が見えないくらい、自分の役の背景をたくさん書き込んであったね。僕はそんなことできないから、とにかく身体でぶつかっていくしかなかったんだよ」

 と思い出を話してくれました。

 当時60歳だった内田監督は、大河内傳次郎主演時代劇『仇討選手』(1931年)、『人生劇場』(1936年)、『大菩薩峠』(1957年)など、数々の骨太の作品を残しています。なかでも『飢餓海峡』(1965年)は、毎日映画コンクール監督賞を受賞した不朽の名作で、高倉はこの作品の終盤に、舞鶴署警部補として登場します。

 内田監督は1970(昭和45)年8月に、72歳で帰らぬ人となりました。『吐夢がゆく』に、寄稿した高倉の言葉です。

〈「お前の手は、アイヌの青年の哀しみを、出していないじゃないかッ」

 と監督に怒鳴られました。そして“本当にダメな奴だなあ”という調子で、スタッフ全員に聞こえるような大きな舌打ちをされるんです。“衣裳に悲憤を”さえよく理解できないのに、“手に哀しみを”と言われても判るはずがありません。何度も撮りなおしが続きました。

©文藝春秋

 後になって考えれば、そのとき監督は僕の演技がそれ以上出来ないとみて、本当に僕を怒らせようとしたんです。実際、カッとなって“もうやめて帰ろう”と思う寸前でした。“手の演技”を教えられたのもこの時です。手の表情一つで、女性を口説くこともできるとか……。

(中略)

 仕事を離れたときの監督はとても優しく、いろいろな話をしてくれました。

「ゴッホにマルクス、それに中国に関するあらゆる本を読みなさい。中国人は偉大だよ」

 と言われたのをよく覚えています。

 いま僕が俳優を続けていられるのも、当時、内田吐夢監督から身体で覚えさせられたものが、役に立っているからだと信じています。

 それほど僕にとって大きな出会いとなった監督です〉

 高倉を徹底的にしごき抜いた、忘れようにも忘れられない監督でした。