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「それにしても残酷ないじめ方だった(笑)」三國連太郎が明かした…高倉健が受けていた激しすぎる“しごき”の実態

『高倉健、その愛。』より #2

2021/11/10
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「だからみんな健チャン好きになっちゃう」

 石井輝男監督は、1924(大正13)年東京生まれ。新東宝創立時に助監督として入社しますが、1961(昭和36)年、新東宝倒産を機にニュー東映東京に移った監督1作目が、高倉主演の『花と嵐とギャング』でした。

「『番外地』の馬に引きずられるシーンで、最初人形使ったんだけど、軽すぎてポンポン飛び上がるから、人形ってすぐにわかっちゃう。だから、『監督、僕がやります』って。あんなこと言うんじゃなかったって後悔したけどね。

 画面で見てるとわかりにくいんだけど、重たい雪で鼻も口も塞ふさがれて息ができないの。走ってる馬に、途中でスピードを調節しろなんて、無理だからね。あれはよく気絶しなかったなって思う。二度とやるもんじゃないって、勉強になった(笑)」

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©文藝春秋

 高倉が石井監督と組ませて頂いた作品は20を数えました。

 作品のシリーズ化に当たっては、石井監督が高倉の印象を語っています。「本番中に、カメラ越しに急に注文付け加えても、パッとその通りやってくれますし、大人なんですよ。子供っぽい役者だと、このセリフはどうの、必然性がどうの、なんてすぐいい始めますからね。それから健チャン、専用の椅子なんか持ってない。大抵、立って見てますね。そういうのが好きなんですョ。だからみんな健チャン好きになっちゃう。ボクだって、そうでなけりゃ何本も組んでやりませんョ」(「バラエティ」1980年3月号)

 デビューした年から、年間の出演数は少なくても8作品、多いときで13作を数えました。途切れることなく映画を撮り続けることに変わりありませんでしたが、『日本俠客伝』11作、『網走番外地』18作(うち『新網走番外地』8作)、『昭和残俠伝』9作など3つのシリーズ化が始まりました。

 映画俳優・高倉にとっての大きな転機の一つが、石井輝男監督との出会いでした。

 東映を離れた後、ご一緒する機会のないまま、石井監督は2005(平成17)年8月12日逝去。享年81。〈安らかに 石井輝男 高倉健〉

 高倉直筆の文字が、北海道網走市内の潮見墓園の墓石に刻まれています。