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特集観る将棋、読む将棋

2021/11/12

 あの3年生の部の上位3人と、森内俊之九段、高見泰地七段が一緒に写った表彰式の写真は、伊藤四段の父・雅浩さんが撮影し、後日プリントして川島さんにもくれた。雅浩さんはよく、大会の写真をプリントして川島さんに渡していたという。今、探してみると他にもらった写真は出てきたけれど、あの写真は出てこなかった。そして、学年誌の休刊が相次ぐなか、存続が危ぶまれていたこの大会は、この回が最後の開催となった。

2010年8月(小2)に行われた倉敷王将戦全国大会で三軒茶屋将棋倶楽部から低学年の部に参加した3人。真ん中が川島滉生さん、右が伊藤匠四段(伊藤雅浩さん提供)

予選を通過したのは狩山四段

 小学生時代の大会の記憶を川島さんに聞くと、伊藤四段も出ていた大会のことはよく覚えているのに、そうではない大会では記憶が曖昧だ。4年生の倉敷王将戦では、伊藤少年は東京都代表を逃し、川島少年は神奈川県代表に。

「全国大会でたっくんがいない時は、気合いが入らないのです。自分だけ代表ならたっくんより上と満足してしまって。そのせいか、全然覚えていないんです」

 この年から、倉敷王将戦全国大会の形式が変わり、小4~小6の全国64人の代表を8人ずつ8ブロックに分けて、ブロック内で3戦。全勝した1人だけが8人の決勝トーナメントに進む形式に変更された。川島さんは全国大会で鬼ブロックに入ってしまう。同じ4年生の藤井君、翌年の小学生名人になるO君、小学館の大会3年生の部4位のB君。5年生の狩山幹生現四段。川島さんは狩山四段に負け、藤井三冠はO君に負け、予選を通過したのは狩山四段だった。

 この予選の組み合わせ表を改めて川島さんに見てもらうと、「すごい鬼ブロックですね。狩山四段に負けたのも、藤井三冠が同ブロックだったのも覚えていません。藤井三冠とは一度も指す機会がありませんでした。指していれば、強さも分かって印象に残ったかもしれないのですが……」。藤井三冠は、倉敷王将戦全国大会と同じ夏休みに行われた奨励会試験に4年生で合格している。

2010年8月(小2)に行われた倉敷王将戦全国大会低学年の部の集合写真。最前列右から2番目・伊藤匠四段、前列右から6番目・藤井聡太三冠、前から3列目の右から2番目が川島滉生さん(伊藤雅浩さん提供)

同じスピードで伊藤少年が昇級していき、追いつかない

 藤井三冠は小1で東海研修会に入会していて、4年生ではすでにBクラスだった(東海研修会と関東研修会では関東のほうがクラスが厳しいという見方もあるものの、Bクラスは奨励会合格可能性が高いと言われる)。

 川島、伊藤の2人が研修会に入ったのはもっと遅いタイミングだ。4年生になった4月、2人は一緒に試験を受けたのだ。3年生の頃からそれぞれ通うようになっていた蒲田将棋クラブでの段位「三段」を伝えると、伊藤、川島とも同じくらいの力の子たちと試験の対局が組まれた。結果は差が出た。伊藤匠D2入会、川島滉生E2入会。

「大会では僕のほうが良い成績を収めることも続きましたが、冷静に見ると力には差がありました。2クラス差は香落ちの手合いで、香車1枚分、たっくんが強かったように思います。蒲田(将棋クラブ)でも2人して順位戦に参加したりトーナメントに出て、たっくんが少し上でした。藤井三冠は別として、たっくんの小4でD2はかなりすごいこと」

 川島少年は早く伊藤少年に研修会で追いつきたいと頑張った。2カ月でE1、その1カ月後にD2、その1カ月半後にはD1とスピード昇級。しかし、追い付かない。まったく同じスピードで伊藤少年が昇級していたからだ。

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