昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

特集観る将棋、読む将棋

2021/11/12

「最初は二段分くらい差があったけれど、同じ歳の子に駒を落とされるのは屈辱で、ずっと平手で挑み30連敗くらいしました。ただ挑むだけでは勝てるようにならないと、詰め将棋とか家でも将棋の勉強時間を増やしました。たっくんは嫌がらずに僕の挑戦を受けてくれました」

 初めて勝ったのは1年生の秋ごろ。1回勝つと川島少年が勝つことが珍しくなくなり、伊藤少年もだんだん川島少年を強敵と認めてくれるようになってきた。「こーせー」「たっくん」お互いをこう呼んで、大会があるとそれぞれの親に連れて行ってもらい一緒に参加した。

「次は大会でたっくんよりいい成績をとる!」

 2人が2年生になると、全国小学生倉敷王将戦・小1~小3の低学年の部で予選を勝ち抜き、川島少年は神奈川県代表、伊藤少年は東京都代表になった。三軒茶屋に通う1学年上の男の子も神奈川県代表になり(将棋人口の多い東京都と神奈川県は、高学年、低学年とも代表は2人ずつ)、倉敷での全国大会に参加した。

 冬の小学館学年誌杯1年生の部で優勝し、さらに各学年の上位2人が参加するグランドチャンピオントーナメントで上級生を破って3位に入り、周囲を驚かせた伊藤匠君は、すでに有名将棋キッズ。この大会でも優勝候補の1人と目されていた。

2011年7月(小3)のときんの会合宿で。左が伊藤匠四段、右が川島滉生さん。何度も行われたときんの会の合宿には、複数の現奨励会員や女流棋士も参加した(宮澤春彦さん提供)

「決勝で当たろうね」。伊藤少年がこう言った相手は川島少年ではない。1学年上の埼玉の強豪A君だった。その会話を川島少年は唇をかみ聞いていた。

 当時はスイス式トーナメント5回戦で、上位2人が決勝進出する。川島少年は1、2回戦で負けてしまい入賞圏外に。

「情けないし悔しいし、たっくんの視界に自分は入ってないし。たっくんはその言葉通り、決勝に進出しました。相手はその埼玉の強豪でした」

 結果、たっくんは準優勝。

「次は大会でたっくんよりいい成績をとる!」。川島少年は燃えた。伊藤少年は全国有数の強豪なのだから、それは、全国から強豪が集まる大会で上位に入ることと難易度は変わらない。でも、川島少年の目標は「全国優勝」ではなく、たっくんより上の成績であること。この全国大会、藤井聡太三冠も愛知県代表として参加して4勝1敗の10位だった。

『全勝なら次はこーせーが大将だな』

 あの写真の3人がそろって出場したもう1つの大会で、あの1枚が撮られる1年半前のことになる。小2の藤井聡太君は東海地区では有名だったものの、全国の同世代で頭一つ抜けているほどの実績ではなく、川島少年は藤井少年のことを知らないまま大会を終えたという。

 翌年、3年生になったときには伊藤少年、川島少年のどちらも倉敷王将戦の都代表、県代表になれなかった。東京・神奈川とも大激戦区で、連続して代表になるのは簡単ではない。そして全国大会では、愛知県代表の3年生・藤井聡太君が優勝している。 

 同じ教室に通う仲間として、団体戦に出ることも度々あった。3年生以下の3人で組むクラスに三軒茶屋将棋倶楽部チームとして、大将・伊藤匠(3年)、副将・川島滉生(3年)、三将・有段者の2年生で出場したときのことを川島さんはこう語る。

z