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人は遺伝が50%、成育環境が50%だと思う

 当時(1960年代)の精神科病院は、閉鎖病棟が当たり前だ。大量投薬の影響で性格が変わってしまうことも少なくない。60年ちかく前の出来事なので確たることはいえないが、どちらにせよ多感な高校生時代に、精神科病院に強制入院させられたのは不幸な出来事だった。

「だけど、ぼくは精神病院に入れられたのが始まりだったとは思っていないんだな。人は遺伝が50%、成育環境が50%だと思うから、それは関係ないと思ってる。やっぱり自分で選んでこうなったんじゃないかな」

 確かに正論だが、それでも思春期に精神科病院に強制入院させられたら、誰であれ人生が変わってしまうだろう。

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「精神病院を退院してからは、牛乳配達とかのアルバイトをしながら小石川工業高校の定時制に転校した。そのとき学生運動をやっていたから、自分もその影響をうけて活動に参加したりしていた。卒業してからは就職もしたんだけど、仕事がどうしても続かない。人間関係がうまくできなくて、就職してもすぐに辞めることが続いた。それで家を出て、横浜の寿町で暮らし始めたんだ」

「精神病院に強制入院させた両親を、恨んだりしませんでしたか」と訊ねても「うーん、どうなんだろう」と要領を得ない。この頃のことはあまり覚えていないのだと言う。思い出したくない気持ちの方が強いのかもしれない。

人間関係をつくれないから、もう自分には日雇いしかないと思った

 当初は町工場に勤めながら、佛教大学の社会福祉学科を通信制で勉強していた。寿町のドヤから図書館に通って勉強していると、日雇い仕事に誘われるようになり、やがて勉強もやめて日雇い仕事をするようになる。

「最初の日雇い仕事だけはよく覚えていて、船に貨物を積み込んでから、貨物が揺れないよう木材とかワイヤーで固定する仕事だった。これは面白かったな。それからは、時間軸をよく覚えていないんだけど、とにかく寿町にいたり、山谷にいたりした。日雇いだったから、仕事が続かなくても何とか生きていけたからね。会社に勤めようにも、人間関係をつくることができないから、もう自分には日雇いしかないと思ったんだな」

 寿町で一人住まいを始めたときは20代。この1970年頃は労働争議や左翼運動の全盛期だったこともあり、ヒロユキも寿町のドヤ街に住みながら労働運動、反戦運動などに参加していた。当時でいえば、政治運動に関わる「先進的な労働者」だった。駒場高からは社会活動家も生まれているから、退学したとはいえ、ヒロユキもそうした流れを汲んだ生活をしていたことになる。

「だけど社会運動を引っ張っていく連中っていうのは、自分の意見を絶対に正しいことだと主張するんだな。なのにアパートに住んで、ホームレスを論じるようなところがある。それは仕方ないとは思うんだけど、どうしても違和感が拭えなかったんだ。それで離れていった」