これらの経緯から、嶺岡牧は日本の酪農発祥の地とされ、千葉県が文化財に指定している。県内の他の牧は開発されて跡形もなくなったが、山中に取り残された嶺岡牧の跡は石垣や土手が万里の長城のように続いているという。
明治維新後の嶺岡牧は政府の管理下に置かれた後、地元農家の有志が設立した畜産会社に払い下げられるなどした。が、畜産会社は1911(明治44)年に解散。一部の土地が県に寄付されて、現在の「千葉県畜産総合研究センター嶺岡乳牛研究所」などになっている。
白牛の血筋も絶えた。明治初期に伝染病が流行し、大打撃を受けたからだ。その後、乳牛の中心となったのはアメリカなどから輸入したホルスタイン種だった。嶺岡牧を取り囲む地域には小規模の酪農家が林立し、牛乳の一大産地となっていった。
乳牛の飼養頭数も全国2位だったが……
安房の酪農家は研究熱心だった。乳量が増すよう品種改良を重ね、優秀なホルスタイン種は北海道などへ移出されていった。
冷蔵技術や輸送手段に乏しかった明治期から大正期にかけては、一帯に多くの練乳工場ができた。加工用に牛乳を濃縮するのである。そうした中には、森永乳業や明治のルーツとなった工場もある。
チッコカタメターノは、こうして乳牛の飼養頭数が増えた明治後期から大正にかけて食べられるようになったと考えられている。
石田さんは「この辺りの農家はほとんど乳牛を飼っていました。乳を搾るだけでなく、田んぼを耕す動力としても重宝でした。畦(あぜ)の草を刈って食べさせ、糞は堆肥にして田んぼにすき込みました」と話す。しかし、トラクターが牛に取って代わり、農水省が乳牛の多頭化政策を進めると、千葉県の酪農家は時代の波に乗れず、戸数が減っていった。
乳牛の飼養頭数も長らく北海道に次いで全国第2位だったが、第6位に転落している(2021年2月1日時点の畜産統計)。
「私達にとっては、とても懐かしい料理」
約60頭の乳牛を飼い、安房の酪農家では大きい方だった石田さんも、「14、5年前に飼うのをやめた」と言う。初乳は酪農家でしか得られないので、チッコカタメターノも食べられなくなった。「だから私達にとっては、とても懐かしい料理なんです」と寂しそうに語る。
だが、細々とであってもチッコカタメターノは食べ続けられてきた。
むしろ近年はネーミングの面白さや栄養価の高さに注目する人が出始め、静かな広がりを見せている。
ところで、現役の酪農家はどんな料理を作っているのだろう。
標高200mの嶺岡山系の中腹に牛舎を構える鴨川市の松本光正さん(58)を訪ねた。
松本さんは4代目の酪農家だ。38頭の母牛と、育成中の子牛20頭を飼育している。おじゃました時にはちょうど生まれたばかりの子牛の世話で忙しそうだった。