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水窪川を利用し大きくなった製紙業

 1833(天保4)年、伊那谷より製紙職人が音羽谷に移住、弦巻川や水窪川の豊かな水を利用し製紙業を軌道に乗せる。一説によれば東西を丘に挟まれた地形が伊那谷に似ており、風向きや日差しが同じだったことも功を奏したともいう。その紙漉きのノウハウはやがて広まり、明治中期には80軒ほどの製紙業者が営業する最盛期を迎える。

 暗渠沿いを進んでいくと左手崖下に小さな神社が現れる。今宮神社だ。そして、鳥居の前の路上には、かつて水窪川に架かっていた「今宮橋」の遺構の石板が埋まっている。

 その境内には明治時代、製紙業者たちが和紙を鷲に掛けて招聘した「天日鷲の命(あめのひわしのみこと)」の社が鎮座している。製紙業は大正期以降は洋紙の普及と市街地化の進展により徐々に衰退、関東大震災後には水の汚染を避け転出していくが、小さな社がその歴史を今に伝える。

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今宮神社の参道前の路面に、今宮橋の床版が埋められている。かつての川幅がわかる。 ©本田創

製紙業者の隆盛と入れ替わるように消えた町「音羽の岡場所」

 今宮神社付近より下流の水窪川沿いには、製紙業者の隆盛と入れ替わるように消えていった町があった。音羽の岡場所(私娼街)だ。

 音羽の門前町には18世紀初めころより茶屋が出来始めたが、門前から離れ神田川に近い付近では、やがてそれらが姿を変えて江戸有数の岡場所として賑わうようになる。江戸市内の谷筋の水の気配のある土地はしばしば岡場所を引き寄せるが、ここもそのひとつだったのだろう。

擁壁の水抜き穴から流れ落ちる湧水がバケツに溜められている。近所の人が植木の水やりに使うこともあるという。 ©本田創

 1843(天保14)年、江戸市内の岡場所は江戸四宿を除き取り潰し対象となり、音羽の岡場所も消滅した。今は影も形もないが、水をめぐる土地の記憶のひとつである。