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護国寺から音羽通りへ…骨格は江戸期のまま

 不忍通りを富士見坂の下で越えると、川跡は音羽の谷の東端を小日向台の崖下に沿って南下、やがて音羽通りと少し距離をおきつつ並行して流れるようになる。いっぽう、通りを挟んで反対側、目白台の崖下には、池袋駅西口側を水源としていた弦巻川の暗渠が同様に続いている。

 このような流路となったのは1681(天和元)年、真言宗豊山派の大本山である護国寺の創建がきっかけだ。門前から江戸川橋に至る直線の参道と道沿いの門前町「音羽町」がつくられたが、このとき水窪川と弦巻川も町の裏手、谷の両端の崖下に沿う、参道に並行した2本の流れに整備されたという。

 この参道が現在の音羽通りだ。今や高層マンションや講談社などが並ぶ大通りだが、その骨格は江戸期のままで、川もその時の位置を変えずに暗渠となっている。

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崖下を曲がりくねって下っていく水窪川暗渠。右側路肩にはかつての護岸の遺構が続いている。 ©本田創

 護国寺の境内東側には皇族専用の墓地「豊島岡御陵」が広がる。敷地内には蛇池と呼ばれる湧水池があって、かつては池から川が流れ出し、護国寺境内の2つの湧水池へとつながり、さらにそこから水窪川へと注いでいた。

 境内の湧水池と支流はなくなってしまったが、流れに架かっていた石橋が、現在富士塚「音羽富士」の袂に保存されている。そして蛇池は今もなお、雨の多い時期になると水を湛えている。

護国寺から流れ出ていた支流にかかっていた橋が、境内の富士塚の前に保存されている。 ©本田創

崖に染み出す湧水はいまも

 音羽通り沿い付近から、いよいよ暗渠沿いの高低差が大きくなってくる。

小日向の崖下ではあちこちで湧水が染み出しており、川が水を集め流れていた頃の記憶を留めている。 ©本田創

 暗渠の流れる音羽谷と、左側の小日向台との高低差は十数mに及び、暗渠と交差して、長い階段や坂道が台地と低地を結ぶ。各所で高い擁壁が迫り、その下にはじわじわと染み出す湧水が各所に見られる。かつては湧き出す場所も量もはるかに多く、いずれも水窪川に注いで水嵩を増やしていた。そしてこの水を活用して江戸時代中期より盛んになったのが製紙業だ。