都電の踏切を渡ると路地は細くなり…
都電の踏切を渡ると、路地は細くなりいよいよ暗渠っぽくなってくる。一帯のかつての地名「水久保」「水久保新田」は川の名の由来でもある。水気の多い窪地には明治後期までは川に沿って細長く水田が続き、人家はまばらだった。しかし、巣鴨監獄の完成後は徐々に都市化が進み、関東大震災で焼け出された人々が移り住んで一気に市街地となる。
1925(大正14)年には王子電気軌道大塚線(現・都電荒川線)の大塚駅前ー鬼子母神前間が開通、水久保停留所ができ「水窪商店街」(のち日の出商店街)が形成される。全盛期には100店以上の店舗が並び、他地区からも買い物客を集め賑わった。
商店街の付近は空襲の被災から奇跡的に逃れ、木造住宅が密集した街並みが戦後長いこと残った。一方、災害時のリスクや住環境の改善が課題とされ、1985年頃から街中に「辻広場」と称した空間の創出が図られる。
水窪川の暗渠沿いにある「富士山広場」はその第1号だ。近隣住民のコミュニケーションの場として、集会スペース、囲碁と縁台、持ち寄り本棚など、様々な仕掛けが用意された。その片隅には水窪川の碑も設けられている。その当時は暗渠化後60年弱。川があった頃を知っている人もまだいたのだろう。
住民の高齢化や入れ替わりで、現在ではこれらの辻広場は半ば放置状態となっている。池袋の繁華街より古い歴史をもつ日の出商店街も廃業が進み、もはや風前の灯だ。都電の両側には戦後復興時に計画された補助81号線道路の整備が70年の時を経て進められていて、町の風景は大きく変わりつつある。戦前から継続してきた暗渠沿いの風景が失われる日もそう遠くないだろう。
街の隙間に刻まれた流路
日の出商店街を横切った水窪川の暗渠は、今度は巣鴨監獄への直通道路であった坂下通りと絡み合いながら南下していく。暗渠沿いには井戸や銭湯、谷に降りる階段など、暗渠らしい景観が各所で見られる。
そして暗渠も細かく蛇行する路地となって続く。暗渠化時にすでに流域に家々が密集して建ち並び、直線化等の改修をする余地がなかったこと、区画整理事業を行う予算もなかったことにより、川の流路のかたちがそのまま化石のように暗渠となり、街の隙間に刻まれた。