小骨が刺さりまくって書いてるのに「しつこいね」と言われて
武田 確かにそうかもしれません。でも、比喩ではなく、具体的にのどに小骨が刺さっている時って、そのことばかり考えますよね。どうにかして取ろうとする。刺さったままで、映画鑑賞は楽しめないし、友人と何時間も電話するわけにはいかない。自分が書いている「小骨が刺さった」状態も同じだと思います。つまり、なぜ、そのままにできるのかと。たとえば今、政治と市民の関係において、小骨が複数刺さりまくっているわけです。あの件から逃げ回り、この件は説明をせずに部下のせいにしてみる。小骨、刺さりまくりです。そんな状態の中にあって、「あれはもうなかったことにしよう」「いつまでやってんの」「批判ばかりですね」と、為政者とメディアが結託している。これがどうにも解せない。小骨が刺さっているのだから、それを「そっちが刺したんだから、取り除け」と書く。どうなっているんですかと問う。何も珍しいことをしているわけではないのに、「しつこいね」と言われる。「しつこくなさすぎる」と思っています。『偉い人ほどすぐ逃げる』というのは、『偉い人というか、偉いとされている人が、問題に向き合わずに逃げると、意外と逃げ切れてしまうのってどうなのよ』を短縮したタイトルです。
今回の『コロナ後の世界』の中で印象的だったのが、冒頭での「言葉が尖っている」社会への指摘でした。コロナ禍において、攻撃的な言葉が溢れていると。
SNSを中心に攻撃性の高い言葉が増えている
内田 この一年半を見ていて、SNSを中心に攻撃性の高い言葉が増えたと思います。コロナ対策に関しても、自分と違う考え方をする人たちに対して敵意をむき出しにする人が多くなった。これは自戒を込めて言うんですが、僕はもともとは論争型で、人の論の矛盾を突いたり、揚げ足を取ったりするのが得意なんです。でも、そういう勝負をして「論破」してみても、得るものって何もないんですよね。論争に勝っても、自分自身は少しも変化しないから。新しい知見や情報が得られるわけじゃない。ただ自分の「武器庫」の手持ちで勝っだたけですから、論争の前後で僕自身は何の成長もしていない。論争は人をまったく人間的に成長させない。勝てば驕るし、負けるといじける。せっかく時間と手間をかけるなら、少しでも自分が成長するようなことをしたい。
それに尖った言葉で人を攻撃するときって、「こいつとはもう一生口利かなくてもいい」と覚悟しているわけですよね。その人とは絶対に二度と会うことはないと思っているから、いくらでもひどいことが言える。でも、そうやって一度だけ相手を手厳しく傷つけたことの代償に、僕たちはこれから後一生、その人と顔を合わせる機会を避け、一緒に仕事をすることができなくなる。それって、ほんとうに「間尺に合う」のかなって考えてしまいます。
武田 なるほど。でも、内田さんのTwitterを見ていると、尖ったままですよね。とりわけ、政治に対して、となると、尖った部分が必要になってきませんか。