異性関係に厳しい父、言い出せなかった妊娠
予期せぬ妊娠に悩み果てて慈恵病院を訪れる事例は年間10例ほど。女性たちは慈恵病院で出産後、赤ちゃんを特別養子縁組に託す、あるいは自分で育てるなどの選択をすることになる。アキさんは19歳だった。実母が未成年で未婚の場合、その親が生まれてくる子の親権を行うこととなるが、アキさんは親に知られたくないという。特別養子縁組の手続きをすれば親権者に対して家庭裁判所が審査を行うことになり、知られてしまう。どうしても親に知られたくないとなると、内密出産しかない。
これまでにも内密出産を希望する女性はいたが、慈恵病院であたたかく迎えられ、話を聞いてもらううちに身元を明かし、病院が親や関係者に連絡をとり、無事に赤ちゃんと一緒に退院している。
ところが、保険証は示したものの、アキさんは自分の父親に知られることを恐れた。両親は小学生の頃に離婚し、父がアキさんと弟を育てた。普段は友達のような楽しい関係だが、怒ると父は手が出ることがあった。異性関係には特に厳しく妊娠はとても言い出せなかった。妊娠の相手は高校時代に別れた恋人。妊娠を伝えるとLINEをブロックされ、責任ある対応はなかった。1人で受診した産婦人科は中絶手術を行わない病院だった。友人には相談できず、中絶費用も用意できなかった。
アキさんについて院長が気になったこと
内密出産に関して国は具体的な方針を示していない。慈恵病院を管理する熊本市は、現行法に抵触する可能性があるとして、2020年12月に慈恵病院に対して内密出産の実施を控えるよう要請している。だが、保護して10日以上が経ってもアキさんは意思を変えなかった。内密出産が現実味を帯びてきた10月29日(金)、病院は現状を明らかにする記者会見を行った。その日の夕方、テレビや新聞が報道し、翌日、熊本市は大西一史市長名で「母子の安全を守るために引き続き病院と連携したい」との文書を出した。
院長の蓮田健医師はアキさんについて気になる点があった。ゆっくりとした話し方で、質問に対する答えが噛み合わないことが少なくない。戸籍や出生届といった制度についても理解が追いついていなかった。蓮田医師は発達症の疑いを持ち、11月1日(月)、本人の了解を得て救急車で精神科医に搬送した。検査の結果、軽度の知的発達症であることがわかった。知的な能力を客観的に評価する参考になる知能指数(IQ)の平均は100であるが、軽度知的発達症はだいたい50~75に位置することが多い。複雑な情報を処理したり、先行きを見越して行動したり、問題を解決したりする能力に苦手さを持つ。そのために学習・仕事・お金の管理・子どもの養育など社会生活上の苦労を抱えやすい。また知的発達症のグレーゾーンである境界知能(知能指数で70~85に位置することが多い)の人たちも同じ苦手さを持つことがよくある。
診断した精神科専門病院・吉田病院(人吉市)の興野康也医師は長く地域医療に携わってきた。軽度知的発達症や境界知能の女性の妊娠や出産後の困難な状況をたくさん見ている。