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なぜアキさんは翻意したのか

 その場では表情を変えなかったアキさんだったが、1時間後、祖母に連絡することを了承した。蓮田医師が祖母に電話をかけた。祖母は状況を飲み込むと、「あの子が1人で熊本まで行ったんですか」「あんな小さな身体で産んだんですか」と号泣したという。アキさんに電話を替わると、アキさんは蓮田医師の前で初めて涙を流した。追って父親が慈恵病院に電話をかけてきた。父はたいそう驚いた様子で感謝の言葉を述べ、熊本まで新幹線で迎えに行きたいと話した。

 アキさんが翻意したのはなぜだったのだろう。

「他人が育てても絆は深くなります。我が家の里子と私の関係を見て、自分の赤ちゃんが他の大人に取られてしまったらいやだと思ったのではないでしょうか」(蓮田医師)

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 数日後、朝一番で弟とともに迎えにきた父は、蓮田医師より説明を受けた。境界知能について聞かされると、日常生活でも思い当たる節があったと父は納得の表情を浮かべたという。他方、蓮田医師は、過去にアキさんを激しく叱った理由を父から聞き、娘の境界知能の問題を把握していなかったこととの関わりを察した。

著者提供

 予期せぬ妊娠から孤立出産に突き進み、赤ちゃんを遺棄してしまう事件は後を絶たない。慈恵病院につながらなかったら、アキさんも孤立出産となったかもしれない。

 孤立出産やそれに伴う遺棄事件が起きるたびに、なぜ周囲に相談しなかったのかと女性は責められる。だが、そうなってしまった背景には、妊娠を1人で背負った女性の困難な状態に対して周りの認識が足りていなかったという問題がある。精神科医・興野医師は次のように指摘した。

「軽度知的発達症や境界知能の人は身近に一定数います。ですがなかなか気づかれません。本人から助けを求めるのも苦手なことがよくあります。精神科受診や知能検査を受けることは、さらにハードルが高いです。なので妊娠、出産、育児の困難を抱えた女性に対するケアを手厚くする必要がありますし、特に誰にも助けを求められない人へのケアの方法を社会が持つことが大切です。こうのとりのゆりかごは、その1つの方法です」

 熊本市とアキさんの地元の行政は母子健康手帳の交付手続きなどについて連携をはかり、アキさんの父には退院前に地元の児童相談所から連絡があったという。

 アキさんと赤ちゃんの生活が始まった。初めての赤ちゃんを育てるのは誰にとっても不安で、周囲の助けがなくてはできないことだ。境界知能のアキさんにはさらにたくさんの支える手が必要だ。アキさんと赤ちゃんを守るのは家族だけではない。地域や社会の、認識し、支えあげる力にかかっている。