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 クレイグを師と仰ぎ、兄のように慕っていたキース・ウォレスに与えた衝撃は大きかった。

「しばらくは精神的にボロボロになりましたね。僕にとっては英雄でした。僕が撮影中に雪崩で雪に埋まってしまった時、掘り起こして命を救ってくれたのがクレイグでしたから。シアトルは近いのにクレイグのお葬式には行けませんでした。彼の死に向き合うことが出来なかったんです。お葬式の様子を撮影したビデオを僕だけがもらったんですが、今でもまだ再生できずにいます。ずっと先延ばしにしてきて18年も経ってしまいました」

家族と一緒にライドする喜びを超えるものはない

 クレイグ・ケリーの死は、多くの人のその後の人生にも大きな影響を与えた。ジェイクの仕事の考え方、スノーボードへの向き合い方にも変化が訪れた。クレイグの死から半年後の2003年7月、ジェイクはバートンの経営をオペレーションの責任者だったローレント・ポットデビンに任せ、家族と共に10カ月の世界旅行に出かけた。

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 1977年に会社を創業してから、一心不乱に走り続けた25年だった。自分を見つめ直し、家族との時間をたっぷり過ごし、何よりも自分とスノーボードとの関係を見つめ直したいと思った。

「3人の息子が7歳、10歳、14歳に育っていて、彼らにスノーボードをしっかり教え、彼らが最初のターンを繋げる瞬間やスノーボードというスポーツの楽しさを発見していく様子をちゃんと見つめたいと思ったんだ。そしてドナと共に家族全員でライドする喜びをゆっくり味わいたいと思った。僕はそれまで幸運にも世界で最も上手なチームライダーたちとライドする機会はあったけど、家族と一緒にライドする喜びを超えるものはないね」

旅行中のカーペンター一家:左から次男テイラー、ジェイク、長男ジョージ、ドナ、三男ティミー、姪ビクトリア ©BURTON

「この1年間は僕の人生の中で最高の時間だった」

 北半球は夏だったため、まずはエクアドルからスタートし、チリ、アルゼンチンと南米大陸を縦断した。それはクレイグが亡くなる前、愛する彼女と娘と旅したルートでもあった。そして、オーストラリアやニュージーランド、アフリカ、日本、ヨーロッパと冬を追いかけながら、6大陸を巡った。雪のあるところではスノーボードをし、海のあるところではサーフィンをした。そして、世界中にスノーボードというスポーツが広がっていることを自分の目で確認し、各地のバートンのオフィスを訪れ、ほとんどの社員たちと会うことも出来た。

「それまでも出張で日本やヨーロッパを訪れることはあったけど、展示会に参加したり、ディーラーを訪問したりで、いつも1週間くらいの短い滞在だった。今回はヨーロッパには2カ月滞在したし、日本には5週間もいた。大好きな北海道のニセコでたっぷりライディングして、東京のオフィスの社員たちとも時間を過ごし、日本の文化を理解することが出来たよ。雪の上に座ってバインディングを締めている時、それが日本でもモロッコでも、全く同じ感覚を得ることが出来た。世界中の人とスノーボードを一緒に滑っている気がした。この1年間は僕の人生の中で最高の時間だった」