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 こうして、タイガーマスクの人気が上がれば上がるほど、新日本のストロングスタイルが空洞化していくことに、佐山のストレスは限界に達しつつあった。

このままじゃプロレス界がダメになる

「そういう試合が続くと、プロレスに対して誇りが持てなくなってくるんですよ。『俺はなんのためにやってるんだ?』って。しかも新日本に内紛が起きて、みんながバラバラになっていっていたし。その後のクーデター未遂事件につながる動きなんかもあって、嫌気が差してしまったんです。『もう名声も何もいらない。これからは、自分のやりたい格闘技を、自分の手でイチからやっていこう』とね」

 そしてタイガーマスクは、83年8月4日の寺西勇戦を最後に、新日本とテレビ朝日に契約解除通告書を送付し、人気絶頂のままリングを去った

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「僕はタイガーマスクをやめる時、『プロレスのためにやめる』って言ったんですよ。このままじゃプロレス界がダメになると思ったから。やめたあとは猪木さんとも会ってじっくり話して、クーデターとかそういったことの誤解も解いて、円満に別れたんです」

 それまで佐山は「新日本のために」タイガーマスクとして闘い続けたが、皮肉にもタイガーの人気が爆発することで、新日本からストロングスタイルが薄れ、金銭的な問題も引き起こした。そうなったすべての原因にあるタイガーマスクを、佐山は自ら葬り去ったのだ。

ショウジ・コンチャの“正体”

 新日本時代の末期、佐山の背後には一人の男がいた。タイガーマスク人気絶頂時に佐山の運転手を務め、次第に私設マネージャー・代理人のような立場で振る舞い出すようになるショウジコンチャだ。

「ショウジ・コンチャは、もともと新日本の興行を買っていたプロモーターだったんですよ。それで、たまたま近くに住んでいたので、車で送り迎えをしてくれるようになって付き合いが始まったんです。

 僕は新日本を辞めたあと、『ようやく自分がやりたかった格闘技ができる』っていう解放感でいっぱいだったんですよ。でも、それは自分が選手になるんじゃなく、新格闘技、シューティングができる人材を育てなきゃいけない。選手を育てる以前に、まず先生になる人たちを育てなきゃいけないと思ってたんです。

 そうしたらショウジ・コンチャは、『自分は自動車の会社なんかをやっていて、その傍らで格闘技の道場をつくるから、そこで人材を育てたらいい』って言ってたので、僕はその案に乗ったんです。『交渉ごとや、表でしゃべることは自分がやるから、タイガーはジムに専念してくれ』って言われて。だから最初は、あくまで僕がやりたい格闘技をサポートしてくれる協力者だと思っていたんですけど、徐々にそうじゃないことに気づくんですよ」