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深入りをしないのが、二丁目の作法

 一歩、二丁目に入れば、身分も本名も明かさずに飲み、相手を探すことができる夢のような空間だった。長谷川は“先輩”たちから夢の空間を保つ作法を教わっている。

「いい、名前を聞かれたらヒロシです、でいいの。昼の仕事も本名も簡単に教えちゃダメだからね」。だから顔は知っていても、本名を知る相手は少なかった。

 憧れていたクロちゃんは言った。「この街にヒロシもいっぱいいるけど、あんたは顔がよくないからブスのヒロシね」。通り名が決まれば、それ以上の深入りをしないのが、二丁目の作法だった。

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 LGBTへの抑圧も偏見も差別も当然ながら、今より強かった。当時はゲイも「結婚し、家庭を持ってこそ一人前だ」という時代だった。長谷川にこう語って聞かせたゲイは、実際に自分だけでなくパートナーも女性と結婚しており、子供もいて家族ぐるみで付き合っていた。ここまで関係を持てば、2人で飲みに行っても怪しまれることはない。徹底的にカムフラージュしながら、二丁目に通う。彼らのような人は珍しくなかったという。

写真はイメージです ©iStock.com

新宿二丁目の「全盛期」

 一方で、逆説的ではあるが長谷川は当時の二丁目に充満していた熱気も知っている。「1960年代から70年代は、ある意味で二丁目の全盛期だったかもしれない」。性的な刺激に満ちていただけでなく、新しい文化を生み出す街という一面もあったからだ。同性愛を真正面から扱った『仮面の告白』で一躍有名作家になった三島由紀夫が出入りしていたのも有名な話で、街には様々な逸話や浮名があふれていた。フランス現代思想をリードしたミシェル・フーコーや、ロラン・バルトといった思想家が、来日時にお忍びでやってきた。そんな話も広まっていた。シーンには「奇妙なシンクロニシティー」(長谷川)があり、独特の魅力と活力に満ちていた。

 同時代のニューヨークにはゲイを公表していたポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルの周辺に、クリエイターが集まった。同じようにゲイを公表していたフォトグラファー、ロバート・メイプルソープが男性のヌード作品を次々と発表していた。

 日本では三島、そして劇団「天井棧敷」を主宰した寺山修司の周辺に性的マイノリティーの表現者が集まっていたと長谷川は言う。そこに矢頭保という写真家がいた。三島のヌード作品で知られ、日本においても男性ヌードというジャンルを切り開いていた。三島は彼の写真をこう評していた。

1969年、「裸祭り」という写真集が出版された。矢頭保が二十数カ所で撮った145枚に、三島由紀夫が長行の序文を寄せている。「生命にあふれた男性そのものに立ち還り、歓喜と精悍さとユーモアと悲壮と、あらゆるプリミテイヴな男の特性を取り戻してゐる」(2014年5月2日付朝日新聞)