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《店主の逝去後も有志が引き継いで営業継続》新宿二丁目の“最古参ゲイバー”が性的マイノリティーに愛され続ける“納得の理由”

『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』より #1

2021/12/16

 2020年、新型コロナウイルスの感染が日本国内でも大きな広がりを見せていた当時、「夜の街」は「クラスターの発生源になるのではないか」と名指しで懸念されていた。当事者である新宿二丁目の人々はどのように周囲の反応を受け止めていたのだろう。

 ノンフィクションライターとして活躍する石戸諭氏の新著『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(毎日新聞出版)では、コロナ禍の東京に集い、困難に直面しながらも前向きに歩き始める人々の姿が映し出される。ここでは同書の一部を抜粋し、いわずとしれた「ゲイコミュニティー」の中心、新宿二丁目最古参のゲイバーにまつわるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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洋ちゃんが死んだ

 一人の老人が死んだ。事実を並べれば、そう伝えるだけで事足りる。だが、一人の人間の死には、語るに値する人生がある。それは誰であっても──。

 洋ちゃんの死が伝えられたのは、2020年が始まってまもない1月のことである。82歳という年齢を考えれば、その死は決して珍しいものではない。総務省の統計によれば、2019年時点で80歳以上の人口は1125万人に達し、総人口の8.9パーセントを占めている。彼は1125万人の中の一人だ。

 洋ちゃんの死が新宿二丁目に少なくない衝撃を与えたのは、新千鳥街の一角で1970年代初頭から営業する小さなゲイバー「洋チャンち」の店主であったこと、そして2020年年頭の時点で二丁目「最古参」と呼ばれていたからに他ならない。

 新宿二丁目のルーツは、事実上、売春が公認されていた旧赤線地帯にある。1958年の売春防止法全面施行で一気に、廃れかけた街になった。そこに活路を見出したのが、ゲイバーの店主たちで、1960年代後半にかけて店は増えていく(伏見憲明『新宿二丁目』新潮新書などによる)。現在、東西に約300メートル、南北に約350メートルという小さなエリアに300とも400とも言われるLGBT関連の店が密集している。そんな街は世界中を見渡しても、そうそう無いのだと集う人々は口にする。

「ちょうど初めて新宿二丁目に行ったのは、1971年前後だったかなぁ。昔は二丁目に行くこと自体のハードルが高かったよ」。そう語るのは、長谷川博史である。1952年、長崎県島原半島の小さな村に生まれた。かつてマツコ・デラックスが働いていたことでも知られるゲイ雑誌「バディ」を立ち上げた名物編集者であり、HIV陽性者として、1992年に感染がわかってからすぐに実名と顔を公表し啓発活動に取り組んできた人物だ。

 長谷川にとって、二丁目が憧れの街になったのは高校生の時だった。兄が読んでいた雑誌「平凡パンチ」で特集が組まれており、二丁目の存在を知る。そこに登場していた「クロノス」のクロちゃんの姿に心を鷲掴みにされ、自身の性的指向も同時に知ることになった。長谷川は、進路希望を熊本大学の理系から、東京の私立文系に変えた。数学の成績が伸び悩んでいたという事情もあったが、それ以上に「二丁目」への憧れが進路変更のモチベーションになったという。一浪の末に慶應義塾大学に進学したが、二丁目にはなかなか行けなかった。

 「貧乏学生だったから、バーって高いってイメージがあった。だから最初は渋谷のハッテン場(同性愛者が出会う場)だった名画座で度胸をつけて、ちょっとずつステップを踏みながらたどり着いた」