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 早苗さんも、総合病院の精神科で解離性同一性障害の診断を受け、投薬治療を受けていました。精神障害者手帳の二級が交付されています。精神科で「詳しいことは話さない」のは、心療時間が短いことと、人格交代に伴い気を失う度に叱られたり、親が呼び出されたりして、かえって「傷つく」からだそうです。

 冒頭に示した「亡霊」と名付けられた首を絞めてきた存在のことを、早苗さん自身は知りません。無差別に生き物の命を奪いたいとの衝動に駆られていることも……。私が「亡霊」のことを知っていたのは、早苗さんの中にいる「ちゃむ」という17歳の男の子が教えてくれていたからです。そもそもカウンセリングを申し込んできたのは「ちゃむ」で、早苗さんではありませんでした。そして早苗さんの身体はここへ通いつつも、しばらくの間、早苗さんの人格はどこにも見つけられないでいたのでした。

 とても気さくな「ちゃむ」は強い感覚過敏性を有していて、視覚刺激を瞬時に記憶したり、絵として描写したりするスキルに長けていました。カウンセリング開始後3回目のセッションで、「ちゃむ」は「これあげる」と言い、私に一冊のノートを渡してくれました。各ページに29人の姿が描かれ、名前と年齢、性格などが付されていました。9番目に「亡霊」もいて、「これが出てくるとやばい」と説明しました。思春期の頃には猫などの小動物を殺めて遊んでいたとも教えてくれました。「ちゃむ」は、多くの人格のことを「映像」としてとらえることができていたようです。

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表れた9番目の「亡霊」

 この「亡霊」が私の前で姿を現したのは、本当に突然のこと、7回目のセッションだったのです。

 時間を少し巻き戻し、「亡霊」と呼ばれる人格が私に襲いかかる前の状態を説明しましょう。「みなも」という名の1~2歳の女の子がそこにいました。

 ソファーにうずくまり、目を閉じ、両手で辺りを探っている。偶然にクッションに触れるや、両腕で抱きかかえる。急に瞼を開いたかと思うと、横目で周囲をうかがうように確認し、また閉じる。

 危険がそばにいないかどうかを警戒しつつ、誰にも見つかってはいけないと隠れている。

©iStock.com

「ここは安全だよ」

「安心して眠っていいんだよ」

 こんな私の言葉に対して何の反応もありませんでしたが、聞こえているのは確かです。「みなも」は言葉を発しません。恐らく言葉の概念や暴力の意味について認識できる前の発達段階に戻ることで、自分の身に降りかかった出来事から逃避し、ひとときの休息をとるために表に出て時間を過ごすのでしょう。このような心理現象は退行と呼ばれ、無意識的な防衛機制の典型の一つとしてよく知られているものです。