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 伊藤は言った。

「言葉で褒められたこと、特にないですね。いまもはっきり覚えている言葉は、ケガをして一軍のキャンプに行く前、呼ばれたんですよ、監督室に……。『今年投げられんかったら、辞める覚悟でいろ』と。あれは強烈に覚えていますね。厳しい言葉ですけど、ノムさんの操縦術だったのかなと、コーチになった今では、そう思っています。気にかけてくれていたんだ、と」

 川崎は言った。

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「試合前、球場のバッティングケージ裏に呼ばれてさ、2時間立たされて、怒られた。練習が終わるまで、ずっと怒られっぱなしだよ。当時のオレは、コントロールが悪くて、本塁打を多く打たれていて、監督から『何を考えているんだ』『相手がどう思っているのか分かってんのか』とあの調子でね。ほら、怒鳴るタイプではないから、ガミガミガミガミだみ声で、しかも理詰めで……」

 私は納得した。

【褒めると叱るは同義語。叱られるという行為は、期待されているということ】

 野村自身、プロに入ってから、叱られて育ってきた。だから教え子にも、愛情を持って叱って育てた。

「叱られることをバネにして育ってきた。バネにすることができないようなら、プロとしてやっていけない」と悟った。

「時に厳しく、時に厳しく、そしてずっと厳しい指導でした」

 愛弟子の古田敦也は、「時に厳しく、時に厳しく、そしてずっと厳しい指導でした」と祭壇に向けて語りかけた。何十年を経ても忘れられないほど、熾烈な指導だった。

 古田の率直な言葉に、野村の厳しさを思い出した会場から笑いが漏れた。しかし私は笑えなかった。古田の通ってきた過酷で長い道のりを想像し、胸が苦しくなった。私も番記者をしていた2年間のうち、1年間は野村から口をきいてもらえず、無視をされた。褒められたことなど一度もない。

 半世紀以上も野村のそばにいた参謀役の松井優典が、穏やかな笑みを浮かべながら「厳しさの理由」を解説した。

「野村さんは南海を解任されて、道半ばだった。それからは、解説者として9年間、ずっと外から野球を見続けたんだ。監督の声がかかるのをじっと待っていた。だからヤクルトの監督になったとき、『よーし、9年間で貯めていたものを全部出そう』という思いがみなぎって、張り切っていた」

 就任した1990年、野村55歳。脂がのった年齢だ。野球の指導者としてだけでなく、社会の荒波を経験した者として、伝えたいことがたくさんあった。

【好かれなくても良いから、信頼はされなければならない。嫌われることを恐れている人に、真のリーダーシップは取れない】

 その思いを胸に、ヤクルトでの教え子に厳しく接した。