関学と立命館の「2強」に風穴を開けた関大時代
吉野はもともと関西大学アメリカンフットボール部の出身だ。
関西のアメフトといえば、90年代以降長らく関西学院大と立命館大の2強の覇権争いが続いてきた。吉野が在学中の関大は、そんな伝統に風穴をあけ、実に62年ぶりの日本一に輝いている。
半世紀以上振りの戴冠である。
さぞ、チームにも大きな変革があったのではないか。
そんな考えで吉野に当時の話を聞くと、返ってきたのは実にあっさりとした答えだった。
「前年が5位だったんですよ。2部リーグに落ちるかもしれないという状況でしたし、失うものがなかった。結果的にリーグ戦の序盤で関学や立命と戦えたんですよね。良い言い方をすると関学と立命が完成する前に戦えたというのが大きかった気がしますね。だから運も味方してくれたのが大きかったのかなと」
もちろん当時は吉野を含めた3年生に力のある選手がそろい、いい意味で4年生を突きあげながらチームを形作れたという要素も大きかったという。それでも、そういったチームの“絆”のような目に見えない側面よりも「対戦順」を要因にあげるあたりに吉野のキャラクターが見える気がした。
大学卒業後の進路も「そこまでアメフトに懸けるつもりはなかった」と吉野は振り返る。
「いまこんなことになっているので、説得力のない話なんですけど(笑)。どっちかというと安定主義なんですよ。ちゃんとレールを敷いて、そこに乗っているほうが好きだった。中高大一貫の私立校出身ですし、先生のいうことちゃんと聞いて、評定とって…みたいな学生だったので。あんまり特殊なことをしたい人間ではなかったです。普通に就職して、みんなが知っているような企業に入って、そこで出世して…という気持ちの方が強かったですね」
ここにも「気鋭の若手起業家」の影はない。むしろ見えてくるのは、堅実でクールな普通の大学生の実像だ。
すんなり「アメフトなし」の人生を受け入れたが…?
そして、思惑通りに大手製薬会社に就職した吉野を待っていたのは、予想外の展開だった。
「関東か関西だったらアメフト、続けようかなと思っていたんですけどね」
ところが下された辞令は、まさかの福岡配属だった。
当時、九州には社会人でアメフトを本気で続けられる環境はなかった。かといって競技継続を理由に転職するほどの情熱も、吉野にはなかった。
すんなりと「アメフトなし」の人生を受け入れた吉野が、アメフトに再び関わることになったのは、意外なところからだったという。
「福岡に友達がいなくて週末が暇だったんで西南学院大学というチームの練習に軽い気持ちで参加してみました。その時に学生からコーチをしてほしいと頼まれてポジションコーチとして携わったのがスタートです。ところが2年目頃から選手側から求められることが多くなってきて、『ヘッドコーチをやってくれ』という話がでてきてですね。1度は断ったんですけど、結局ヘッドコーチをやることになってしまった。そこからは、『やるなら本気でやろう』ということで…」
ただし、自分の中で期限は区切った。3年間は本気でやる。そこで結果が出なければ、スパッと辞める。