なぜ大企業を辞め、アメフトで勝負することにしたのか?
「当時、九州地区の代表は東海地区の代表に一度も勝ったことがなかったんです。そこに、ようやくはじめて勝つことができた。結果的に一気に全国ベスト4まで行けたんです。結局、そこで関西代表とやって負けちゃったんですけど、コーチとしては達成感がありました。だから、そこで自分の中で区切りはついて。ちょうどそのタイミングで会社からも大阪転勤の辞令が出たんです」
ようやく念願の大阪転勤が叶うというタイミング。これからは関西でアメフトに関わるか、それともスッパリ足を洗うか――。ところが、そこで吉野は不思議な選択をする。
「そこで会社を辞めてアメフトで勝負することにしたんです(笑)。理由ですか? 僕、これまで人生で自分にしかできないことなんてないと思っていたんですよ。仕事も『人よりうまくやろう』という想いはありましたけど、基本的に誰でもできるものじゃないですか。でも、九州でアメフトを根付かせたいと思う人なんて、『今後50年間、自分以外に出てこないかもな…』と思ったんです」
吉野がそんな風に考えたのは、大学のチームの指導を通じて九州という地域にアメフトが全く根付いていないと感じたからだった。
「親にも相当、泣かれましたし、止められました」
「全国レベルで結果が出るようになってふと考えた時、『どれだけ本気でコーチをしても、ある一定のレベル以上は強くならないな』ということに気がついたんです。当時は良い選手がいても九州では社会人で続けられるチームもないし、その結果として強い対戦相手もいなかった。結局、強豪の社会人アメフトチームがないとダメなんです。選手の先がないし、いいコーチも育たない。目標ももてない。だったら『九州に社会人のアメフトチームを作っちゃおう』という発想になった」
ただ、大手の製薬会社を辞め、突然ひとりでこれまで影も形もなかったチームを立ち上げようというのだ。しかも日本ではマイナースポーツであるアメフトという競技だ。熱意や思いは買われても、現実的な生活面を考えると、周囲も反対してきたという。
「友人は全員『やめとけ』って言いましたね(笑)。親にも相当、泣かれましたし、止められました。でも、一応全員説得してからやりたいなと思ったので、両親は毎週大阪に通って、説得しました」
ただ、意外にも吉野には勝算があった。冷静に計算すれば、この考えは決して突拍子もないものではないと思ったからだ。
「結局、周りが心配するのはお金の部分と、ちゃんと生活できるのかという部分ですよね。そこは『自分にこれくらい能力があって、これくらいはお金が稼げる』というのをちゃんと計算して、プレゼンしました。もちろん『いまはいくら貯金があって、このぐらいの期間なら無給でもなんとかなるから』とかの話もして。そこはちゃんと明確な理由付けをしました」