ことごとく「対話」がない
そんなある日、田んぼに囲まれた介護施設を取材でたずねることがありました。その時、ベテラン介護士の方がこんなことを言っていたんです。
「利用者さんの身体の具合は四季で変化するから、介護の仕事は一年を通してやってみないとわからない部分が多いんですよ」
折しもその日は大寒波が襲った日で、床暖房のきいた施設でも、窓の近くはひやーっと冷気を感じるような日でした。上記の発言は、新人介護士への指導について聞いた際に出た言葉だったのですが、なんだか急に鼻がツーンとして、返事に詰まってしまいました。
重用されるのは、扱いやすい「わきまえた女」だけ。上の命令とあらば、専門家の意見すら「別の地平」の話と切り捨て、たとえ命の危険を感じても、そう感じる「世論が間違っている」と耳を貸さない……。
国のエラい人たちが口にしてきた言葉には、ことごとく「対話」がありませんでした。しかし、日本の片田舎で働く介護士さんの言葉には、自分がこの1年、ずっと欲していた「コミュニケーション」がありました。
相手の変化を感じ取りながら、タッチの方法を都度、変えていく。
介護士さんがしていたのはフィジカルの話でしたが、言葉を通じた交流にも通じる、というかむしろ今足りていないものが全部、その一言に詰まっていた気がしたのです。
ほらみろ。世論が間違っているどころか、答えを持っているのは市民の方じゃん。
勝手に誇らしい気持ちになり、夕暮れの田んぼ道をノシノシ歩いて帰りました。
「人の話をよく聞く」首相との対話はどうなるか
その後も何度か官公庁に足を運びました。とある省庁の女子トイレは、洗面台に一滴も水滴がなく、立派な外観そのままの、非の打ち所がない厠でした(そもそも、それを利用する女性の数がめちゃくちゃ少ないような気もするが)。
民間企業の女子トイレは社員の名前が貼ってあるロッカーが並んでいて、そこからはみ出したコテやら化粧品から、社名という看板からは見えない生活感を感じ、親近感を覚えるのですが、省庁のトイレにはそれがなかったのです。
先日も官僚の方に「おしゃべり会しましょうよ」と言ったらにべもなく断られました。そんなものですかね。まだまだ一方通行のコミュニケーションですが、彼らに会うときは一応、襟付きの服を着ていくようにしています。それが私なりの対話の第一歩です。
来年以降、「人の話をよく聞く」首相とのコミュニケーションはどんなものになるのでしょうか。